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亀の歩み稽古日記 ~闇を通じて日常と稽古を往来する~

稽古が日常に入ってくる。
感情の闇の渦中にいる時、稽古での闇の話を思い出していた。さて、どうする。さあ、どうしよう。今まさに。

感情のことは、稽古では居つく、といい、流れている情動とは区別している。情動に入っていく時は、カラダを開いて感受してゆき、どこへでもどこまでも流れていく、預けていく。深く開いていると、情動の流れの中に居るな、と感じることができる、まれに。

では感情に入っていく時は?
そこには、探る、という方向性があった。カラダを開いて感じていくのとは違い、まるでカラダのあらゆる所から触手がのびるように探っている。虫のように。この探るという事こそ、感情が生まれる構造ではないか、と云われている。そして、探るという行為は、闇を生み出すということ。心の闇を。普通、闇があるから探るという風に思う。でもそうではなくて、探る行為そのものが闇を生み出すと。何を探るのかというと、記憶でありイメージ。感触をも伴いながら、、そしてその探る主(ぬし)もまた記憶であると。つまり記憶が記憶を探っているのだ…。

前にも書いたが、この闇の考察は、かなり興味深いと思った。それを稽古でどのようにトライしたら良いのか、今、思案されている。

日常で闇に引きずられてしんどくなる時は、よくよくある。でも闇の稽古でそこまでしんどくなることはない。何故か。敢えて入ってゆく時、心地よさすら感じる。

心の闇は、一回脱出できたからもう闇はこない、克服できた!というものではないと思う。ふいに、いつなんどきでも訪れる。次から次へと。

苦しい時、闇から、慈悲が誕生することも垣間見た…。いや、自分で慈悲だと思っているだけかも知れないが。それは涙が出るくらいとても感動的なことだったのだ。苦しみから感動へ抜けた。
だけれど、また、闇は襲ってくる。日常のあらゆる瞬間に。

まさにそれが起こる瞬間、さあどうする。また来たな、、カラダで目一杯感じてみようと思った。主に胸で。頭でぐるぐる渦巻く不穏なエネルギーを、溶かして呑み込むように胴体へと流し、カラダ全体に広げて感じる。思い切り。もはや理由など問題ではない。

ひとつ発見したこと、、カラダで思い切り感じるぞ、、となると、やはり顔の表情にもくるな、、。感情、闇の場合。

稽古で闇の話をしていた時、顔の表情の大切さを云われていたが、私はとても抵抗を感じて躊躇していた。

しかししかし。
思い切り感じようとした時、表情にも流れたのだ。ごく自然に。でもな、、これ人前でも出来るだろうか…。

稽古が日常の深いところに入ってきている…。

結局、辛い感情の闇をこんな感じで思い切り感じてみたら、不思議と何処かへ過ぎ去っていった。苦しみから開放されたのだ。感動と一緒に。…感情は情動の流れに合流したんじゃないかな。

水の動きは、情動と共にある。それって慈悲の世界なんじゃないかな。改めて実感を持ってそう思う。

実は、慈悲という言葉。私は生まれて初めて使っている。…新鮮でしょうがない…。

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