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亀の歩み稽古日記~眼差しが抜ける~﴾感情の嵐 ☂️編﴿

感情の嵐の中にいると、他者も自分も傷つける言葉を発してしまう。嵐は全体の一部分でしかないけれど、その勢いは凄くて、一部という狭さゆえ、エネルギーが凝縮され荒れまくる。狭い中で激しいエネルギーにさらされるのだから、もろに衝撃を受ける。翻弄され過ぎて、それが嵐だという視点が持てない。視点が動かない。強く執着しているから。

でも視点が動いた時、ふと風景が変わる。嵐の去り際は鮮やかだ。何事もなかったかのように晴れ渡る。今のは何だったのだ…と。問題なのは、その時に発した言葉が傷になって残ること、特に他者の中に。傷を癒すには時間がかかる。嵐の爪痕。そういう意味で、天気の嵐には後悔はないだろうけど、感情の嵐には、後悔の念が残る。それが嵐の起こった側の傷痕。少しずつ癒えていく傷と、暫く共に過ごすことになる。

視点に柔軟性があるということ。それが如何に大切なことか。執着から逃れる道になる。

踊りで学んでいることがそのまま当てはまってしまう。視点が有限なるカラダを抜けて、無限へと広がっていく。踊りで云う、眼差しが抜けるということ。遠くに抜けて、新たな感覚を得ることは、何かの感情の嵐に捕まっている時、どんなに助けになるだろう。

そしてその抜けた世界は、いつだってあるのだ。
ただ嵐の渦中、流れの中にいたのでは見えないし気づかない。でも踊りでも、どんな動きにも本来抜けた世界との繋がりがあるはずで、そのことを意識するのとしないのとでは、全然踊りが変わってくる。

感情の嵐の中でも、その世界との繋がりを意識できたなら。嵐の時だけじゃない、普段でも。普段は普段で穏やかながらも、流れに流されている所があるから。いつでも抜けた世界を意識できたなら……イマジネーション界と言い替えてもいいのかな。そしたら、日々の生活が変わってくるだろうな。踊りが変わるように。

…… 嵐、動き、流れ。私達を執着させるものたち。世界を彩っている気もする…大いなる存在、大いなる秩序よ、頭が追いつきません…。




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