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亀の歩み稽古日記 ~前置き②~


2020/12/13
踊りは色々あると思う。ただここで取り組んでいるの踊りも紹介してみたい。もしかすると、他とは全く違うのかもしれないから。

当たり前すぎて気付かない身近なことの続き。例えば感情。厄介な謎だ。胸が焦げ付く。めちゃくちゃ振り回されてしまう。例えば、嫉妬や恐怖や猜疑心や被害妄想…etc, それらを感じると、生きていることが窮屈で苦しくなる。他者が怖くて自分が嫌い。そんな事は日常茶飯事に起こるけど、その苦しみの根っこを考えると、どうも根本的に何か世界を誤解してるんじゃないかと思えてくる。今までの様々な方法、その場その場の対処療法ではもう追いつかないから。それくらい私達はひっ迫している。もう行き詰まりまくっている。ひとつの感情を乗り越えたと思っても、次から次へと苦しみはやってくる。雲が晴れるのは束の間だ、いつも。

根本的な何かの誤解。その例をあげてみたい。例えば、「時間・今」の捉え方。( これは由良部さんがよく話していることで、何回も何回も聞いてようやく自分なりに納得している素敵な話 ) 普通私達は、脈々と続く過去から未来への時間の中で生きていて、「今」というのは時間の中の一瞬だと思っている。捉えられない。今、と思った次の瞬間、その「今」は、もう過去になっている。そんな風に、刻まれた時間の中に今があると思っているのが普通だと思う。

でも、逆だったら?「今」の中に時間があるとしたら?そして「今」こそ、私達が存在している場所だとしたら?私達は時間を超えた存在になる。時間の中にいるのではなくなる。時間を超えた「今」にいるのが私達。今、は時間の中の一瞬ではない。今の中にこそ時間があると言える。時間とは別次元。その別次元のほうに私達はいる。

由良部さんは、「今」の中に全てがあると言う。時間も過去も未来も。そしてそれらを超越したところにいるのが私達。そう考えると、時間によって生じる老いや死、時間の中で流されるように生きるという、それは確かにそうだけど、それは一部の事で全てではないと思うことができる。それが全てだとしたら、まるで大きな歯車の一部でしかないように自分を感じてしまう。それは虚しさに繋がってないか。私なんて大きな宇宙の中のちっぽけな存在で、私がいくら頑張ったって、世界は変わらない、という意識が生まれるんじゃなかろうか。

そんな風に、私達の何気ない虚しさの原因は、案外、時間や今の捉え方という根本的な所を誤解して解釈しているからかもしれない。でも、そう教えられて生きてきたから、その当たり前の事を疑うのは容易ではない。他にも色々ある。空間、私、あなた、の捉え方などなど。これもものすごく面白くて、それこそ世界の捉え方が変わる。

それを体現するのはまた途方もないことだけど、そこに向かっているのだ。

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