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103「一生忘れない思い出」をこれから経験するためのたった1つのヒント

夏休みの日記には、こう書かれている。

「なつ休みは、ふじ山にのぼりました。
 ちきゅうが、まるく見えました。」

2002年8月3日。
タイトルは「ふじ山にのぼった」。


夏休みの宿題として6歳の僕が提出した絵日記を見た先生やクラスメイトは、僕をそれ相応にちやほやしてくれた。

クラスメイトに
「富士山に登ったんだよ!」
と自慢ができたことは、素直に嬉しかった。

カブトムシをたくさん取った、海に行った、プールで皆勤賞をもらった、そういったエピソードとは、明らかに異質な体験。
夏休み明けの話のタネにしては、合格点どころか、花丸満点だろう。よくがんばった。


でも実は、僕は「周りに自慢できた」そのこと自体をそこまで喜んでいたわけではない。本当は、それよりももっと嬉しいことがあった。

それは、絵日記に書いたこの一文。

「ちきゅうが、まるく見えました」

だった。

僕はこの夏、自分が見た地球の姿に、ずっとドキドキしていた。

いま大人になった僕は、6歳の夏休みのことを正直ほとんど覚えていない。

でも、20年以上経った今でも、
富士山の頂上から見たその景色は、鮮明に思い出すことができる。

これから、富士山で僕が見てきたこと、見つけてきたものについて、話していきたい。

富士山に登る羽目になった6歳

僕は別に、山が特段好きなわけではない。
かといって、とくに嫌いなわけでもない。普通だ。

6歳のときに初めて富士山に登った理由は、
正直、父親のよくわからないこだわりのせいだ。

「うちの子は、6歳になったら富士山に登る」

三兄弟の我が家で、長男の僕。
趣味のフルマラソンを、当時、3時間半のタイムで走っていた父。
その、はりきった父親の第一回目の実験材料に、必然的に僕がなってしまった。

ただそれだけの、不運と言ってもいい。
単に、登らされただけだ。

でも、そんな親に決められたイベントでも、僕は富士山登頂を控えて、少なからずワクワクしていた。

新幹線に乗って、いつもと違う荷物を持って、お父さんと遠くに行く。
そして、「日本で一番高い山に登る」。
学校から開放されたうえに、ここまでの刺激のある夏休みは、少年の僕には魅力的だった。

富士山の五合目についた時には、さあ、いよいよ登るぞ、とやる気満々。
父は山小屋で、富士登山のための杖を買ってくれた。祖父にもそうしてもらったらしい。
しかも杖は、ここでしか買えない木製の、特に模様のない無骨な見た目。
上のほうに鈴が巻きついていて、歩くたびにシャラランと音が鳴る。

ほとんど「ただの木」だけれど、真ん中あたりに丸い模様がある。ちょうどシールのような形をしている「五合目」と書かれた焼印だ。

「登ったら、この杖に、焼印を押してもらえるんだ。六合目、七合目、八、九……そして頂上。がんばろうな」
父は僕に言った。

ついに、これから富士山に登る。

僕の期待の風船は、ぷくぷくに膨れ上がっていた。

下りたい。とにかく、もう登りたくない。

ただ、そうは言っても、
6歳の期待の風船は、決して強いわけではない。

「あれ。これ、楽しくないかもしれない」
と気づきはじめたのは、だいたい七合目あたりのことだ。

なんだか、全然先に進まない。
進んでも進んでも、先が遠い。
それが、途方も無いように思えたのだ。

しかも、山の天気は変わりやすい。
急に空が曇り、雨が降った。

父と僕は、びしょぬれの火山岩を踏みしめて、前に、上にと歩いていった。
寒い。ただでさえ冬の気温なのに、雨のせいで、空気が刺すよう冷たい。
前は霧で、ほんの少し先の人が、もう見えない。

そんなことをボーッと考えていたら、特につまづいたわけでもないのに、ズルっと滑って転んだ。
すべりやすくなった石は、少し気を抜いただけでそういうことをしてくる。
ガラガラガラ…と石が転がって落ちていく。


富士山は、もう楽しくなかった。

そこから先はあまり記憶がないが、たぶん、父親の助けを借りながら、歩いていったんだと思う。

変わりやすいのは、天気だけではなかった

八合目の山小屋についたときには、
もう頂上を目指す気はなかった。

当初の予定は、ここで一泊して、翌朝に山頂アタック。

でもこのとき確か、僕は父に「もう帰りたい」と言ったと思う。

父は帰らせてくれなかった。

「明日はご来光を見るために早起きだぞ」と言われたが、嫌だった。

実際、僕はご来光は見ていない。
眠いのもあったが、そもそもやる気がなかった。

父もそれを待ってくれた。
結局、6時くらいに起きたときには、簡易ベッドの周りは少し明るくなっていた。
(ご来光を見るためには、もっと早く、2時とかから登るんだったと思う)


この日、たまたま晴れていなければ、
僕は本当に八合目で、山を降りていたと思う。



外に出たら、奇跡が起きていた。

澄み切った空気。まぶしい朝の日差し。広い、オレンジ色の空。
そして下には、僕が登ってきた山道が、うねうねと折れ曲がって、遥か下のほうに見えた。
昨日までの悪天候がウソのようだった。

「山の天気は変わりやすい」。
昨日まで雨で見えなかったものが、すべて見えた。

僕は、山を登り始めた。
徐々に父を抜いて、トントンとリズムを踏んで、ダッシュで上を目指し始めた。

頂上は、もうそこに見える。

「ちきゅうが、まるく見えました」

「おお。そこが頂上だぞ」

後から来た父にこう言われたとき、
僕は別のものを見ていた。

それは、地球。

僕はこのとき、目の前の景色を見て、「信じられない」と思っていた。
いや、というよりも、
「これは、信じるしかなくなった」と表現するほうが、近いのかもしれない。

地球が丸いこと自体は、6歳の僕ももちろん知っていた。
けれど、その知っていたことを本当に理解したのは、間違いなくこの時だった。

富士山頂からみた地平線は、
青く、大きく、長い孤を描いて、
僕の視界いっぱいに広がっていた。

僕はそのとき、自分の身体で、足で、目で、「ちきゅうがまるい」ことを知った。

「ちきゅうが、まるく見えました」

これが僕の、丸い地球との出会いだ。

頂上で、最後の焼印を押してもらった後も、
高山病で頭がいたくて寝そべっていても、
僕はずっと、僕が見つけた、まるいちきゅうを見ていた。

「まるいちきゅう」は、横から見ても、やはり丸かった。

自分で見つけた答えは、一生、忘れない

ちなみに、この話にはオチがある。
中学校か高校か、理科の先生にこの話をしたら、
「それは錯覚。そんなに地球は小さくない」
と言われた。なんとその先生曰く、科学的にはありえないらしい。真偽のほどは、調べ直してもよくわからなかった。

そんなロマンを壊すことを言うなよ!と、今の僕ならその先生に説教をしてやりたいが、当時の僕は全くショックは受けなかった。

僕にとって、そんなことは本当にどうでもよかったからだ。



大事なのは、
僕が富士山の頂上から見た地球が、確かに丸かったということ。

ただそれだけ。
それで別になんの問題もないのだ。

誰かにとっての正解でなくていい。
僕は、僕の答えを、見つけて帰ってきた。


27歳の僕は、今も6歳のときの気持ちに戻ることができる。

自分で見つけた答えは、一生忘れない。

これは登山でも、そうでなくても、違いはないのだと思う。

敵、ライバル、そして恩師

今でもそう信じていられる大人になれたのは、
富士山と、父と、頂上までの焼印がいっぱいに押された木の杖が、僕にそのことを教えてくれたからだ。

富士山は僕にとって、
最大の敵で、ライバルで、そして恩師だ。
もちろん富士山は、そんなことを知らずに、少なくともこの20年以上毎日、静岡県と山梨県の間に座っているのだけれど。


これから先いつになるかわからないが、
きっと僕は、
まだ見ぬ僕の子が小学校に入る前、必死で、身体を鍛えているだろう。

いつからかずっと、そんな気がして仕方がない。

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