(試行版)ぼくらは、それを見逃がさない。⑥突然消えた2億円ドナー~エルセラーンとの別れ、PWJ混迷の始まり
創設の頃からNPO法人ピースウィンズ・ジャパン(PWJ)の代表理事を長く勤めていたのは、大阪に本社があるエルセラーン化粧品(大阪市北区、糸谷沙恵子社長)の創業者で、2019年8月に社長を退いて会長に就任した石橋勝氏です。
同社のホームページには、石橋氏がボランティア人生を始めたいきさつが詳しく紹介されています。
1941年、徳島県生まれ。父親は戦後シベリアに抑留されて死亡し、病弱な母親と極貧生活を送りました。21歳の時、礼拝に通っていた教会でマザーテレサの記録映画を観て、魂を揺さぶられ、「ボランティアに人生を捧げる」と決意したそうです。
ボランティア活動の資金作りのために1981年にエルセラーン化粧品を設立、肌にやさしい天然系原料による化粧品を売ることにしました。1983年には利益の1%以上を積み立てて、社会貢献活動に使うというエルセラーン1%クラブを設立しています。
貧しい国の子どもたちの里親になる日本フォスタープラン協会への支援や緊急人道支援から始まり、中東の湾岸戦争被害者への義援金、日本の歳末助け合いなど内外問わず支援活動を続けています。
https://elsereine.jp/policy/message.html
テレビ大阪で自身がキャスターを務める「石橋勝のボランティア21」という番組を提供し、各国のボランティア事情を取材し、紹介しました。
PWJの代表理事になったのは娘・桂さんが上智大で大西健丞氏後輩だった関係からのようです。
ここで再度、大西氏の著書「世界が、それを許さない。」(2017年、岩波書店)から引用します。最初の就職先、アジア人権基金東京事務所が資金不足に陥り、クルディスタンで活動中の大西氏が帰国を余儀なくされた1995年のことです。
「事業を続けられないかと奔走するうちに、幸いにも心強いスポンサーが現れました。大学時代、ボネット神父のゼミの後輩の女性の父上が大阪で化粧品会社を経営していて、社会貢献のためと、多大な寄付をしてくださったのです」
1996年2月、大西氏は仲間2人とNGOピースウィンズ・ジャパンを東京で立ち上げ、再びクルディスタンに向かったのでした。
1999年10月、特定非営利活動促進法(NPO法)が出来たのを機に、PWJはNPO法人ピースウィンズ・ジャパン(PWJ)となりました。
設立当初の役員は以下の通りです。
代表理事 石橋勝
副代表理事 森垣繁
理事 城戸啓子、木村町子、三宅登志子、篠原静枝、西川千夏子、大西健丞、石橋桂
監事 田中新吾
代表理事に就任した創業者の石橋勝氏、大西氏と同じ理事に就任した娘の桂さんなど、エルセラーン化粧品関係者が全面的にバックアップした様子がうかがえます。
いまから30 年前の1989年、ベルリンの壁が崩壊して東西冷戦は終結に向かいました。
同時に宗教や民族などの違いを原因とする内戦、地域紛争の時代が始まりました。1990年代は被災者を救う緊急人道支援の必要性が高まりました。
政府中心に国際開発援助を展開していた日本でも、民間団体や企業が難民支援や医療援助への関心を高めた時期です。
経済、国際援助問題を取材していた私のところにも医療機器メーカーから医療援助団体「プロジェクトホープ・ジャパン」立ち上げの相談があり、発展途上国事情に詳しい役員の人選に関わったことがあります。短期的な損得は抜きにして援助を通じて発展途上国との関係を強化する目的があるようでした。
外務省、JICAも機動的に動ける民間団体との連携強化に動き出し、大手企業も社会貢献活動に力を入れようとしていました。
2000年には政府、経済界とNGOが連携して国際援助活動を効果的に行うジャパン・プラットフォームという枠組みも出来あがりました。
国のODA資金が同プラットフォームを通じて活動資金が、寄付文化が未成熟で慢性的な資金不足に悩む民間援助団体に供給され、機敏に活動できるようになったのです。
PWJはそうした「時代の風」に乗って活躍の舞台をどんどん広げていきました。
大西氏が一躍有名人になったのは、2002年に東京で開催されたアフガニスタン復興支援国際会議です。
大西氏が鈴木宗男氏の圧力で外務省がPWJの会議参加を拒んだことを批判したのをきっかけに、もとから険悪な関係にあった外務省と田中真紀子外相の対立が激化しました。
田中真紀子氏を外相に抜擢した小泉純一郎首相も泥仕合を看過できなくなり、最後は大臣と次官を更迭する事態に至ったのです。
田中真紀子外相は「外務省は伏魔殿」と言いましたが、確かに機密費の横領、流用を含め問題が噴出した頃で、真紀子人気も絶頂期でした。
大西氏はしたたかです。北方領土問題からODAに至るまで外交に口を挟む鈴木宗男氏を悪者として叩いても、世論が守ってくれるという読みがあったのではないでしょうか。
この事件で大西氏はヒーローとなりました。スタジオジブリの鈴木敏夫氏やイオングループの岡田卓也名誉会長ら著名人だけでなく、移り住んだ広島県福山市でも何かと声をかけられる有名人の仲間入りをしたのでした。
しかし、皮肉なことに草創期からPWJの活動を理念的にも資金的にも支えてきたエルセラーン1%クラブとの関係は2006 年に壊れてしまいます。
大西健丞氏は著書の中で「設立以来ずっとご支援くださって、最大のドナー(寄付者)だった化粧品会社と意見の対立があり、決別することになった」と書いています。
「寄付は正確には、化粧品会社の代理店ネットワークからいただいていました。年間およそ2億円という、かなりの金額で、それが突然なくなってしまったわけです」
いったい、何があったのでしょう?
エルセラーン化粧品の説明はこうです。
「2006年夏。途上国での学校建設など『教育』をキーワードにした活動を始めました。石橋会長は、テレビ番組の取材などを通して、『貧困からの脱却や世界平和の実現に欠かせないのは教育だ』と痛感したのです」
モンゴルのストリートチルドレン(マンホールチルドレン)を支援する現地のNGOの助成したのを皮切りに、外国の現地NGO/NPOと連携して、児童保護施設、図書館運営、絵本の出版、フリースクール、奨学金の支給、そして学校建設支援を展開しています。
学校建設は2009年にラオスのタペン村に作った小学校が第1号です。1%クラブの歩みを紹介するエルセラーン化粧品のホームページによると、2019年4月時点で開校した学校は10カ国168校にのぼります。目標は1000校ということです。
エルセラーン1%クラブが路線変更を決める1年前の2005年2月、大西氏は福山に自分と妹・由起氏中心の観光会社「風の音舎」を作っていました。鞆の浦からモーターボートに乗って瀬戸内海を走り回り、観光活性化をビジネスとして行おうとしていたのです。
PWJ創設時からの中心事業は、紛争地帯などへの緊急人道支援でした。
しかし、大西氏は海の観光による国内の地方振興へ、石橋氏は途上国の貧しい人の教育支援へとそれぞれ関心が変わったのです。
大西氏の著書によると、エルセラーン化粧品の代理店ネットワークの一部が分派活動を起こして、もともとのドナー1500人くらいのうち200人ほどが「風の音舎」に移って、PWJ支援も続けてくれたということです。
NPO法人になった当時のPWJの理事の1人、木村町子氏は風の音舎(その後「シャノンマーレェ化粧品」と改称、現在の社名は「LOSA」)で2007年2月から代表取締役会長を務めています。
PWJはそれで解散の危機を乗り切りますが、大西氏と支援者との蜜月も長くは続きませんでした。
大西氏が風の音舎の資金で愛媛県上島町の豊島(とよしま)に建設した「ヴィラ風の音」が業績不振で、会社の重荷になったからです。
初代の社長は妹の由起氏、ヴィラ支配人は純子夫人でした。大西氏も経営幹部として責任を問われる立場だったはずですが、彼の思いは少し違っていたようです。
以下は2012年に大西氏が会社を辞めた時の心境です。「世界が、それを許さない。」からの抜粋です。
「やっていくうちに気づいたのは、何兆円も売り上げていたら別ですが、プロフィット&ロス(損益計算書)に縛られている企業経営のなかで、たくさんのお金を寄付したり、社会事業に供出したりするのは難しいということです。僕が51%以上株を持っていて、自分の会社ならよかったのですが、化粧品の代理店の方たちに株を持ってもらっていたので、結局いろいろとステークホルダー(利害関係者)がいて、自分の利益はどうなっているのだという話になってしまいました」
かなりの強がりです。
そして、そこに大西氏の大きな勘違いがあります。
1990年代に発足したPWJは時代の波に乗っていました。冷戦の終結で援助活動は民間中心となり、民族紛争の多発で援助需要も爆発的に広がりました。
そんな時期、大西氏はエルセラーン、そして国のODA資金を財源とするジャパン・プラットフォームの資金提供を受ける幸運に恵まれたのです。
自ら稼ぎ出した資金ではないのです。
慈善活動のために必要な資金を作るために起業し、成功してPWJにも資金を提供してきたエルセラーン化粧品創業者・石橋勝氏や、エルセラーンをやめて大西兄妹の観光会社「風の音舎」についていった木村町子氏(LOSA会長)らは、この本を読んでどんな感想を抱いたでしょう。
大西氏は「自分ならなんでも出来る」という全能感に浸っているかのように、次々と事業を立ち上げていきます。
そうした能力は使命を成し遂げるのに役に立つこともありますが、一方で錯覚、勘違いを戒める気持ちも必要です。
妹や夫人とともに開業させたヴィラがもととなった愛媛県上島町での観光事業といい、夫人をプロジェクトリーダーとして立ち上げた広島県神石高原町でのピースワンコ事業といい、ふるさと納税という半ば公金をあてにした事業は、大胆な構想と厳しい現実の間で迷走が続いています。
以前の記事でも紹介しましたが、ジャパン・プラットフォームの構想を日経のコラムで提唱した原田勝広氏(元明治学院大学教授、ジャーナリスト)も、狂犬病予防法違反などに問われたピースワンコ 問題を機に大西氏が自己過信に気づき、再出発することを期待していました。
稀有な成功体験をもとに有名になった人が陥りがちな慢心という病でしょうか。
「ふるさと納税」というエルセラーン、ジャパン・プラットフォームに続く3番目の幸運の女神もいつまでも微笑んでくれるとは限りません。
国際ボランティア活動の後援者であり、師ともいうべきエルセラーンの石橋氏との決別は、大西氏にとって大きな試練として、いまもなお立ち塞がっているかのようです。
彼には少し厚すぎる壁かもしれません。
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