見出し画像

分葱の畑を見て考えたこと

昨日ふらり立ち寄った尾道市岩子島(いわしじま)のワケギ(分葱)畑です。見ていたら「ここは日本一の産地なんです」と生産者の農間富久ご夫妻が教えれくれて、摘み取ったばかりのワケギをたくさん分けてくれました。タマネギとネギのハーフです。うまそうですが、かなり強いニオイです。

もともとこのあたりの島はミカン畑だらけでしたが、農間さんによると、「みんなミカンばかりでは余って仕方がないというわけで、岩子島はワケギ、因島(いんのしま)はハッサクという具合に住み分けしたらしい」ということです。50代半ばの農間さんが聞き伝えという形で言われるのですから、産地として育ってからはずいぶんと長い時間が経っているのでしょう。

岩子島に立ち寄ったのは、「しまなみ海道」のパーキングエリアで知人と合流するまでに1時間ほど余裕があったので、半世紀ほど前、小学校の遠足で渡った岩子島と向島(むかいしま)を繋ぐ「向島大橋」の写真を撮ろうと思ったからです。

向島大橋は国道でも県道でもない「農道」として国の農業予算を投入して建設された橋のはずで、それだけ半世紀前の瀬戸内海島嶼部の柑橘栽培は巨大な産業だったわけですね。

この橋(ワケギ畑の写真ばかり撮っていたので、橋の写真は撮り忘れました)にはもう一つ思い出があって、私が記者として初めて農林水産省を担当した1986年、元農林官僚の渡辺五郎さんと知り合い、「広島県庁出向中にあの橋の完成式典に出た」というゴローさんとはその後長い付き合いとなりました。

ゴローさんは私と知り合った頃は事務次官を退官したばかりで無職でしたが、その後、バイオテクノロジーの研究機構の初代理事長を務めたり、JRAの理事長として絶頂期の競馬ビジネスの運営にあたり、競馬の国際化も進めました。食糧庁長官の経験を生かして、農水省の米流通研究会の座長を務めて、のちの食糧管理制度(国によるコメ流通の全量管理=統制)廃止につながるコメ取引市場の創設も提言した仕事師です。

日本橋の商家の育ちで、飄々とした人でした。無類の競馬好きがJRA理事長になって「馬券を買えなくなった」と苦笑いすることはありましたが、深刻そうな表情も見せず大仕事も淡々と片付けてしまう方でした。戦後農政の基礎を作った小倉武一さんの薫陶を直々に受けた世代です。

そのゴローさんが米改革の検討会座長として食管制度改革のビジョンを描いていた頃に農林水産省のコメ流通の実務責任者、食糧庁次長としていろいろと助言していたのが山田岸雄さんで、この方は尾道市出身の官僚で、退官後もコメ流通業界のドンとして君臨された方でした。

おいしいコメがとれない瀬戸内地域の農家は、東北や北海道、北陸の農家のように補助金漬けのコメ作りの恩恵を受けておらず、果樹や畑作で稼いできました。かつての柑橘産業の隆盛もシンボルの一つが、岩子島にかかる向島大橋なんですね。コメを統制から解き放った2人の官僚のこともこの橋を見ると思い出します。次回は必ず写真を撮らなければ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?