1993年のビーンボール:TPPの源流〜APEC「アジア太平洋における自由貿易目標」のスクープをつぶした男
A VISION FOR APEC;
TOWARD AN ASIA PACIFIC ECONOMIC COMMUNITY
そんなタイトルの文書が日本経済新聞の韓国・ソウル支局からFAXでシンガポール支局に送られてきたのは1993年10月8日でした。米国のクリントン政権の政策ブレーンの一人で、米国の著名なエコノミスト、バーグステン氏が座長を務めたAPEC賢人会議(EPG、エミネント・パーソンズ・グループ)の報告書の最終案でした。
APEC、アジア太平洋経済協力会議はその年の11月、就任1年目のクリントン米大統領の呼びかけで、初めての首脳会議を開くことになっていました。
その首脳会議で話し合う重要課題について提言したのがEPG報告です。議長は米国のバーグステン国際経済研究所長。「賢人たちが韓国に集まって話し合い、最終案をまとめ上げたらしい」と聞いて、当時シンガポールにいた私がソウル駐在の同僚記者に相談したところ、関係先からいとも簡単に最終案を入手してくれました。
そんなことができるのはふだんからの信頼関係があればこそです。シンガポール赴任から1カ月しか経っていない私にはできない芸当でした。
「英語は苦手だな」というソウルの同僚を助けて私が報告を翻訳し、ニュース記事をソウルの記者、解説記事を着任前まで東京で外務省の取材を担当し、日本の経済外交・対外援助政策について記事を書いていた私が受け持ちました。
アジア太平洋に共同体を作り出す
アジア太平洋地域で「自由貿易」を実現するという目標を設定し、地域の潜在力をフルに実現して真のアジア太平洋共同体を作り出すという内容です。
膠着状態にあったGATT(関税貿易一般協定)のウルグアイ・ラウンドを1993年末までに妥結させるようAPECが行動をおこし、さらに95年までに次の新しいグローバルな貿易交渉をスタートさせることも求めていました。
それは、そのまま同年11月にシアトルで開催したAPEC首脳会議の宣言に取り入れられました。いまや世界経済をけん引するといっていいほど大きな成長を遂げた環太平洋地域における戦後の歴史の中でも特に重要な文書だといってもいいでしょう。
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