タフ・ネゴシエーター塩飽二郎さん逝く〜国際交渉を進めるときの One Voice の大切さ

 Facebookへの投稿を転載しました。

 1986年にプンタデルエステでウルグアイ・ラウンドの開始が宣言されたときは、農林水産省国際部長。米の関税化猶予を主に米国との秘密交渉で合意したのが1993年秋。開始から終結まで一貫して交渉に関わり、ジュネーブに通い続けた数少ない人物。私も記者として農林水産省を初めて担当したのが1986年でしたから米国による農産物12品目の対日ガット提訴に始まる貿易自由化交渉の様子を塩飽さんからたびたび取材させてもらいました。

 関税化猶予を条件にコメ市場開放を決断したときの京谷昭夫次官、食糧庁の鶴岡俊彦長官らは、国内調整の舞台裏を決して語ることなく「墓場まで持っていく」(鶴岡)と言っていたのとは対照的に、ジュネーブなどでの関税化を回避するための交渉の難しさについて語り続けていました。特に東大の御厨貴さんによるオーラルヒストリープロジェクトのために語り残した記録は後の政策検証にも大いに役立つことでしょう。

 塩飽さんに関税化猶予の舞台裏を語らせたものは、関税化猶予を日本の損失だと言わんばかりの農林水産省の後輩たちによる政策転換だったと思います。猶予を求めなければミニマムアクセス(輸入義務量)を年々拡大することは不要だったわけで、後輩の高木勇樹氏らはコメ余りの時代の中でウルグアイ・ラウンドのコメ関税化先送りの代償は重荷だとして、途中で前倒しして関税化を実施して輸入義務量の拡大を停止させたのです。

 それをもって以後、高木勇樹氏は改革派であるかのように世間から見なされ、塩飽さんら関税化猶予に関わった人たちは肩身の狭い思いをしたわけですが、私の印象では京谷、鶴岡、塩飽のラインこそ改革派、高木氏の仕事はその成果を微調整したに過ぎません。特に畜産局長時代に牛肉輸入自由化の仕組みを作り上げた京谷昭夫氏の構想力、胆力、国内調整力なくしてはできなかった合意だと思います。

 1986年以来、関税化を阻止せよという無理難題を押し付けられて交渉を続けてきた塩飽さんにとっては、関税化猶予のためのミニマムアクセス拡大が「お荷物」と言われるのは我慢ならなかったようです。日本の農業界は過度に政治依存で無理難題を政府に押し付けるので、実はミニマムアクセスのような大きな「代償」を払わされていることがしばしばあるのです。

 私はやはり、プンタデルエステ宣言の通り例外なく農業も関税化して輸入障壁を撤廃する方向に進んでいたほうがよかったと思います。学界を含めて農業を支える政策の根本的な組み替え(デカップリング)に大きく出遅れてしまった思います。京谷さんも塩飽さんも心の中ではそう思っていたはずですが、国の方針として関税化を阻止せよと言われて奔走していたのです。国際貿易ルールを熟知している塩飽さんにとってこれはかなりつらいことだったでしょう。

 そして期間限定とはいえ関税化をしない形でのコメ輸入自由化で妥協案をまとめたわけですから、国の方針に忠実でタフなネゴシエーターでした。国の方針を変えてしまおうと動く外務省の谷内正太郎さんら日本の外務官僚は塩飽さんには目障りでしかたなかったようです。このことはTPP交渉でも繰り返されました。日本の宿痾のようなもので、塩飽さんはせめて対外的には「One Voice」であってくれと語っていました。

 公文書の分析を含めて後日、詳しく紹介していこうと思います。

 塩飽さん、安らかに。

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