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二つの「コメディ」

"It's F**king Over Clowns."-Harley Quinn

■二人のホアキン、アーサーの物語
ホアキン・フェニックスが演じる役は二人いる。一人は、重度の喘息のようにして泣きながら笑い、テレビショーで「人生」への怒りを演説するアーサー・フレック。もう一人は、轟音の地下鉄で虐殺を振り撒き、警官をピエロの群れに溺れさせ、嘲笑い踊るジョーカー。二人は顔にメイクをしているか否かで区別される訳ではない。二人は「コメディ」の意味が違うのだ。
映画全体の筋は、アーサーという男の悲劇的なドラマとその爆発を描いている。その点で、主役はアーサーだと言っていい。彼を通して映画が実験したのは「道化に物語を与えるとどうなるか」ということだった。コメディ(笑い者にする)を悲劇(笑い者にされる)にひっくり返すのは視点を変えるだけで容易になされる。そこから司会者の頭を撃ち抜くのも、逃げわめく観客には予測されることだ。アーサーの「コメディ」は悲劇に反転するものとしてある。例えば、バーのステージに上がり、突発的な笑いに苦しみながら客を笑わせようとするアーサーの姿は、テレビショーに笑い者として晒される。
悲劇とは物語であるならば、悲劇に反転するアーサーの必死のコメディもまた物語に奉仕するものとなる。この点で、アーサーは物語的人物として存在している。物語的人物は「人生」に生きる。彼の言う通り、アーサーにとって「人生とはコメディ」なのである。
だが、地下鉄で乱射をするジョーカーにその反転はあるだろうか?彼は躊躇なく三人の酔っ払いを追い詰め、銃殺する。殺したのは蹴られて笑いものにされたからだろうか?しかし、その「物語」では執拗に逃げる背中に弾痕を打つ姿が説明されない。つまり、ジョーカーには物語がない。では、彼は一体どういう存在なのか?ジョーカーにとっての「コメディ」とは何だろうか?

■テレビを見るアーサーの「狂気」
ジョーカーとアーサーの関係について見るために、アーサーの「狂気」について考えてみよう。
部屋で母と一緒にテレビを見るアーサーは、いつの間にかテレビショーの観客席に座っており、司会者マレー・フランクリンに招かれて舞台に立つ。アーサーにとって、「ステージを見る」ことは、「ステージに出る」ことと同じになっている。部屋にいるアーサーにとってテレビの中のステージとはどういうものなのだろうか?
彼は部屋の中で、テレビの中のゲスト俳優と立ち振舞いをリンクさせて一人(不在の)司会者との掛け合いをしている。あたかも、母と二人で見ていた時の、アーサーの客観的な姿を見せられているかのようだ。彼は(そして一時的には観客も)テレビの中と振る舞いを同期することで、スタジオと自分の部屋を連続させる。この連続は、アーサーの見ている「夢」だということもできるだろう。アーサーにとって、部屋から見るテレビのステージは、彼の見る「夢」である。
部屋ではこうした連続が他にも起こる。彼は部屋で一人、ネタ帳に書いてある「ジョーク」を読んでいる最中に、その内側に入り込み過ぎて手元の銃を発砲してしまう。部屋はテレビやジョークなどの虚構の空間に連続してしまう。虚構と連続してしまう部屋は、アーサーにとって「狂気」の空間であるといえる。
すなわち、アーサーの狂気とは夢的なものである。アーサーは部屋で夢を見る。だが、その夢は部屋の殻を破って、外に飛び出していく。ネタ帳に書かれていた「ノック、ノック」のジョーク=夢は、同じようにドアをノックして訪れた二人の同僚において実現される。眼球に鋏の突き刺さった顔が何度も壁に打ちつけられるその部屋から、「夢」が街に漏れ出し、赤いスーツを着たジョーカーが廊下を出て行く。

■踊るジョーカーの「コメディ」
ここで、ジョーカーがアーサーとは独立した存在として見ることができるのは、過去の作品のなかで脈々と演じられてきた「ジョーカー」というキャラをホアキンが(本人が意図せずとも)部分的に踏襲しているからだ。自ら手を下さずに警官を嘲笑う姿やデモの裏口からいとも簡単にホテルマンに変装して映画館の中へ入り込む手際は、特に『ダークナイト』におけるヒース・レジャーの演じたジョーカーの仕草に似ている。そうしたふるまいは悲劇的な筋に生きるアーサーと落差を持って感じられる。
このようなジョーカーが現れるのは、例えば階段のシーンである。赤いジャケットを羽織った後、腹を伸ばすようにして脚を蹴り上げ、水溜まりを踏み弾くダンスシーン(彼は一人で踊っていたというのに、このロケ地で人々が踊り写真を撮るのは皮肉だろうか?)。あるいは、道化屋をクビになった後に降りていく暗く狭いシーン(「Don’t Smile!」)。彼は階段を、ステップを踏んで降りていき、踊る。シンメトリーで撮られたゴッサムの一角にある長い階段を、一人で踊る〈ジョーカー〉の姿には「悲劇的な人生を踊るしかない」という物語的解釈では捉えきれない力がある。物語に生きる、悲劇に怒り苦しむアーサーは踊ることができない。
ジョーカーは踊る。鏡の前で手繰り寄せるように回る、肩より前から生えた腕。炎上する車の上で大きく広がって揺れる腰。血の足跡で後にする白い刑務所の曲がり角で跳ねるステップ。何のリズムに乗っているかもわからない踊りが、「古き良き」音楽とともに観客を美しい夢へと連れていく。彼の波打つ腕は、まるで私たちに手招きをしているようだ。彼が踊ればそこはステージになる。階段というステージで彼の「コメディ」は上演される。

■子供たちはジョーカーの夢を見る
ところで、この映画を批判的に見る眼に、例えば、彼を取り巻く善良な人々がみな黒人であることや、殺される人たちにそこまで因果がないこと、「精神異常者」に感情移入をさせカメラワークや場面展開にしていることを指摘する眼に、この手招きは見えるのだろうか?確かに、アーサー=映画全体の筋に対してそれらの指摘は真っ当だろう。
だが、水の迸る長く狭い階段や燃え盛るゴッサムの内側に入った観客ならば、その晩寝床で見る夢に同じ場面を経験するだろう。例えば、その観客とは子どもたちである。
『JOKER』はアメリカにおいて「NC-17」と呼ばれる、17才以下の鑑賞を全面的に禁止するレーティングを受けている。それは殺害シーンのグロテスクさから納得されるものだが、果たしてそれだけが子どもをこの映画から遠ざける理由だろうか?
子どもたちは場面の中に入り込んでいく天才である。彼らが仮にこの映画を見たとして、夢に見るほど強烈に受けとるのは、テレビショーで声を振るわせながら演説するアーサーではなく、暴動で燃え盛る街とその真ん中で踊る=手招きするジョーカーの姿だろう。彼らは誘われるままに、映画の夢の世界へ連れ出されるだろう、まるで『IT』のピエロに誘い出された田舎町デリーの子どもたちのように(実際、先日地上波で放映された『IT』を観た多くの子どもたちは、その地下水道での恐怖を熱狂的に語っていた)。
アーサーが自らの部屋で「夢を見る」のだとすれば、ジョーカーはその踊りで「夢を見せる」。暴動で車のガラスが叩き割られるゴッサムシティや真っ白い病棟のシンメトリーな廊下や轟音の鳴る電灯の壊れた地下鉄の夢を。そして、彼が踊るステージで「コメディ」が上演されるのだとしたら、ジョーカーにとっての「コメディ」とは「夢」である。夢に物語はない。夢に説教じみた演説はない。夢に悲劇はない。そこには、テレビ=映画を見ている「部屋」にいる観客を「ステージ」へと招く誘惑だけがある。

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