見出し画像

黒潮の精霊、家内のオクトポリス、駅伝の最終コーナー(20年4月15日+21年2月9日)

「魚は緑を求め、海は山を必要とする。漁民もまた山なしでは生きられなかった。」-日髙旺『黒潮のフォークロア 海の叙事詩』


 黒潮を臨む鹿児島の富士の話を読む。『黒潮のフォークロア』という本だ。鹿児島にある開聞岳を目当てにして、船は漁場を定め、町まで帰ってくる。

 思えば、北風小僧の寒太郎も「町までやって来る」存在だった。安房直子の『めぐる季節の話』にもありありと描き出されていたような「精霊」という存在に興味が惹かれる。黒潮にも聖霊はいるのだろうか?

 今日は富士の稜線が丹沢の峰の上、裾野まで見え、あまりにも巨大なその姿に、「あそこには神の国がある」と言われても納得してしまうほどだった。自分たちの住んでいる地域のどこにも存在しないスケールのものが、遠くに見えるからだろう。しかし、西日にシルエットを浮かべていた姿から、段々と暮れるにつれて山肌のテクスチャーを見せ始め、闇に消えていくのを見届けていて、富士山とは実際に在ったり無くなったりするものなのではないかと思った。在る時は異様な存在感を持ち、無いときは全く希薄というように。

 神とはスケールの問題だ。立ち読みした千葉雅也「マーサ・ナカムラの一寸法師」にも、迷宮に迷い込む子どもや粒子の間の一つ一つに宿る神たちの話があった。巨大な神の国から細部に宿る神まで。

 松岡正剛は、「神」についての章で「女の子はなぜ人形遊びをするのか」と問うていた。幼き頃「ポケモンごっこ」なる遊びに興じていた私にとっても、人形という存在をどう考えるかは重要だ。あの頃は確かに人形たちに魂を感じていた。『トイ・ストーリー』シリーズに限らず、遊びと魂、あるいは神の問題には無限の展開があるだろう。


 一方、風呂では弟のイロモネア芸の勢いに爆笑し、ホットサンド、お好み焼き、京番茶を食した一日だった。他愛もないステイホーム生活のなかで、透明なボールに浸した水に浮かぶ卵が綺麗だった。

 日中にうまく光が差すと、シンクの事物が水の滴る輝きを見せることがある。「春のパン祭り」で集められた真っ白な器が重ねて干されていた時にも、日光が差し込んだことがあった。最近は、ゴドフリー・スミスの『タコの心身問題』を読んでいて、深い海の底のオクトポリスに集まるタコたちの姿が重なる。重ねられた食器たちは、海底に積まれたシャコガイの殻のようだ。それらの隙間に入っていくタコたち…。

 

 休校のなか、楽園の時間を過ごす子どもたちに明日も呼ばれた。公園の周りを駅伝で競うのが流行りで、春の暑い日差しの中を延々と走り続ける。コーナーを曲がって仲間たちの姿が見えてくる光景が声援と共になだれ込んでくる。日の落ちた宵に、スマホで明かりを照らして走った港北の公園広場の景色が重なる。

 僕らの住む町のスケールは公園の外周100メートルと少しであり、僕らの住む家のスケールはキッチンの数10センチだ。その最終コーナーを曲がる身体感覚、あるいは食器を干して待つ時間感覚から、異種たちの棲み、存在する他なるスケールへの想像を紡ぎ直していく。神や魂の問題を、生活と地続きな場所で捉えていく。


 異なる一日たちの力を借りて、編み物のように次の6年の主題を生成できたらと思っている、そんな試み。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?