序文 星座づくり

<記憶、すなわち時間の番人は、ただ瞬間をしか警戒しない。持続がすなわちそれであるところの複雑で人為的なわれわれの感情に関しては、記憶は何ものをも——絶対に何ものをも——保持しはしないのである。>*

思い出は瞬間を繋いでできた星座だ。
ぼくたちは、ばらばらの瞬間をひとつの絵として眺めている。

思い出はどこかに保管されているわけではない。あらゆる出来事をだれかが管理しているということはないだろう。出来事を正確に認識したという保証もないのだから、その思い出はもしかしたら錯誤だったかもしれない。

そしてそれはいま現在の時間の推移の中でも同じであり、この瞬間に統合されたいくつかの独立した瞬間である星々を出来事として理解しているだけのように思える。星座はいまここにある瞬間にだけ、この瞬間の自分にだけ成立する。つまり、錯誤だったかもしれない思い出はもうすでに存在しておらず、いまイメージとして現前している思い出には錯誤などあり得ないのだ。

ぼくは自分が見ているものが他人の見ているものと同じだとは思わない。
たとえば同じ映画を同時に見たとか、同じ料理を一緒に食べたとか、同じジェットコースターに並んで乗ったとか、そういった場合でも、きっと相手はぼくと同じことを思わないだろう。たまたま同じ感想を述べることもあるだろうが、それは結果的にそうなっただけであり、しかもそれが本当に同じことを言っているかは結局のところ誰にもわからない。これはそれぞれが別の認識を持っているということだと言える。たとえば人々がいまよりもウイルスをまともに警戒していた時期には、外に出れないで苦しんでいる陽キャと普段通りに自宅で自我に苦しんでいる陰キャとの対照的な姿を目にすることがあった。彼らは分かりやすく違う現実を見ている。また、ある人にとってコロナは風邪だし、ディープステートと戦うトランプは英雄だ。また別のある人にとっては地球が平面になっている。潔癖症の患者もそうでない人とは明らかに違う現実を見ている。現代では定説になっている地動説だって本当はそういう意味でしか正しくない。現実の中で生きて苦しんでいる自分とは別に、現実を外から見ている自分がいるところを想像してほしい。色のない世界に彩色しているのが各人の色覚であるように、誰もがそこから自分だけの現実を見ている。自分の孤独な魂に映った世界を眺めている。

各人の現実はそれぞれの認識に委ねられている。言い換えると、どの瞬間とどの瞬間とを結びつけてひとつの事象としているのか、そこにどんな因果関係や相関図を見るのかは、各個人に委ねられているということだ。たとえばアンジャッシュのコントにそれがコミカルに表現されている。

各人で異なったものを見ているのだから、当然その認識にはズレが生じる。共通の土台の上に立っていると思っているところに認識の相違が露見した場合の動揺は、ひとつの現実の崩壊と言っていいと思うが、ぼくらの日常において実存を揺さぶるほどのカタストロフが起こることはほとんどない。ここで言いたいのは、他人と認識が相違しているということではなくて、いま見ている現実は崩壊し得るということだ。つまり、さっきまでの自分を他者として、いまこの瞬間の自分から切り離してしまえば、無意識に隠していた景色が再び見えるようになる。そこで見つけられたかもしれないオルタナティブな現実の存在に気付かないでいると、ずっと同じ星座、多くは不愉快な絵でしかない現実を見続けることになる。

<現在と未来の間に隔たりがあるなど、もはや私たちは思っていません。私たちは知っています。「ここが新天地でなかったら、新天地などどこにもない」ことを。今この瞬間に行動しないなら、もう絶対に行動することなどないのです。>**

このランダウアーの主張は、栗原康の「あたらしい生のイメージをつかみとれ」*** という言葉に集約される。新しいことを始めるときの躍動感は「あたらしい生」に触れていることの証拠だ。この瞬間だけを拠り所として過去も未来もいま作り直す****、そのような気概で辺りを見渡すとき、そこにはすでに新天地が広がっている。そこからまたすべてをはじめることができる。

『狂気の愛』(光文社古典新訳文庫)の解説に「ブルトンにとって詩とは、「言葉がアムールをする」場」だと書いてある。ここにはどんなしがらみからも解放された自由恋愛のイメージがある。ブルトンの著作には、一般的なつながりから離れた言葉の使われ方が頻出する。アムールの前にカタストロフがある。というよりカタストロフ自体がアムールになっている。

瞬間は常に生成されている。いまこの瞬間が始まりであり終わりだ。<私>がいまこの瞬間の<私>として生きるのであれば、あらゆるしがらみから解放されている。ひとつのカタストロフはひとつのアムールを成立させる。自分の手で星を結びつけるなら、その営みがそれぞれの生を詩的にするだろう。

もし物質の悪夢に取り囲まれて苦悩が深まっているのなら、奪われるに任せてみるのもひとつの手段だ。奪われて、奪われた後に、絶対に奪われないものがそこにはまだ残っている。

絶対に奪われないものとは何か?
すべてだ。

夜空には無数の星が煌めいている。

2021.08 早乙女まぶた

* ガストン・バシュラール「瞬間の直観」『瞬間と持続』
** グスタフ・ランダウアー「自治-協同社会宣言——社会主義への呼びかけ」
*** 栗原康「何ものにも縛られないための政治学 権力の脱構成」
**** 過去と未来は人魚の同類であり、イマージュの海から一歩も出ることのできない創作の物語にすぎない。それらは実際に目で見ることや手で触れることができた場合にはじめて人間と結婚して魂を手に入れることができるのだが、それはもはや過去でも未来でもあり得ないだろう。それに、成就した出来事も気がつけば目の前を通り過ぎて泡になり、結局は海に消えてしまう。つまり拠り所にできるのは、過ぎ去らない現在だけしかない。それは一つの種子だと言える。なぜなら、そこからは世界が芽生えるのだから。