序文・体温で蒸発する花びら

ぼくたちは生まれつき、一日に24時間自分自身で在りたい、ただそれだけの願いを阻まれているようだ。

ヒステリーの母親、何もしない父親、暴力的で頭の足りない弟。食事は用意されず、キッチンに近づけば怒鳴られ、チャンネル権は与えられず、弟の不始末の責任はすべて転嫁され、風邪をひけば罵倒されるような家の中で、自分自身でいられるのは唯一自分の部屋だけだった。だからぼくはそこに閉じこもって、ほとんどの時間を寝て過ごした。学校にいても、街の中にいても、会社にいても、程度の差こそあれ、自分の素直な姿で生きることはできなかった。

というのはぼくの話だが、これくらいのことは誰にだって身に覚えがあるだろう。ありふれた不幸である。不幸は珍しいものよりもありふれているものの方がむしろ悲惨な場合があるが、もっと悪いものに幸福というのがある。

幸福は最悪だ。得るために、失わないために、自己欺瞞を強いられる。幸福に憧れを持つ限り、自分がそれに合わせなくてはいけなくなる。不幸の場合はまだ開き直ることができる。ひとりでいるささやかな時間に、なにかしらの慰安を見つけることもできる。幸福はそうではない。つねに自己の喪失を要請される。生きている人間が幸福になどなれるわけがないが、少しの間ならそう錯覚することができる。つまり自分が幸福に合わせられる限りそう思えるということだ。でもそれはそうそう続かない。ボードレールが「今いる場所でないところへ行けば、いつも幸福になれるような気がする」と書いたように、錯覚が消えてしまえば、それはつねにここではないどこかの話なのである。

幸福のために生きている人は、文字通り幸福のために生きているのであって、自分のためには生きていない。幸不幸という評価軸を捨てない限り、自分を取り戻すことはできない。求めるのは幸福ではない。なるべく多く自分自身でいられるように行動することだ。それだけが本物で、なんの留保も言い訳もなく「生きている」と呼べる状態なのだ。ぼくにはそういう風にしか思えない。

いま置かれている状況が喜ばしくない人も多いかもしれないが、それが生じていること自体は奇跡的な話である。当たり前に感じるのは当たり前のように捉えているからだ。インターネットがあるのもスマートフォンがあるのも当たり前ではなかった。指先で操作するだけで本でもごはんでも選んだものが運ばれてくるのは単にその恩恵によるものだが、それ以前に、いま表示されているこれらの文字が存在していること自体が当たり前ではなかったし、なんなら人間が地上で生活していることだってそうだ。つまり、きみがいまそこに生きていること自体が当たり前ではなかったのだ。何を例に出しても同じだが、それがそのような形で発生しなければならない根拠はどこにもない。すべてまっさらな状態からいまの状況をもう一度つくることはとても出来そうにない。そういう目でいまの有様を見ることができた時、むしろ好ましくない状況が変わらないだとか変えられないだとか思っていたことの方が不思議に思えてくる。

ぼくたちは、いままさに形ある無を、一瞬ごとに崩壊する現実として造形しながら生きている。ジョーカーのダンス*は、称賛を受けようだとか対価を得ようなどという目的を持たない素朴な生の表現だった。あの瞬間、彼には過去も未来もなく、いまここで最大限自分自身として生きているということだけで現実を形作っていた。このときの、体温で蒸発する花びらのような瞬間こそが、原初的な意味での芸術ではなかっただろうか。

そうだとするならば、脳裏に住み着いた不幸と幸福を癒す最良の手段は、この現実を、ぼくたち自身を、芸術にすることなのである。


2019.12 早乙女まぶた


*映画「JOKER」において、主人公アーサーが元同僚を殺した後のシーンを参照のこと。イメージとしてぴったりなので名前を出しましたが、知らなくても論旨には影響しません。