幸福 / 清水優輝

 歩く青年の肩にぶつかり、少年の小さな体は飛ばされた。尻餅をつき、腰をさする。青年は少年の足を何度か蹴った。少年は表情を変えず、時が過ぎるのをじっと待っている。青年は無反応の少年に不満で、少年が背負うリュックに手を伸ばした。少年は血相を変えて相手の腕を振り解き、リュックを離さぬように胸元に抱きかかえ、その場から逃げ出した。人目のつかない路地裏で座り込んで、リュックの中身を確認する。ナイフ、小銭入れ、食料、キーホルダー、下着、ハンカチ、そして中身が詰まった革袋を取り出した。少年は革袋を開ける。人差し指と親指で割れないように静かに中身を取り出す。それは2,3センチほどの大きさの硝子の破片であった。角が取れて柔らかな橙色をしている。地面に広げたハンカチの上に硝子をひとつずつ並べて状態を確認する。どれも傷ひとつなく、つるりと輝いている。少年は胸を撫で下ろすと革袋の中に閉まった。今夜食べるつもりのパンは圧し潰されて変形していたが、食べるには問題なかった。

 少年は橙色の硝子の破片を集めて各地を放浪していた。旅のはじまりは忘れた。ゴールも分からない。父からもらった方位磁石は山賊に奪われ、祖父からもらった名前は捨てた。15歳ほどの背丈をした少年が街を歩く姿を見かけて、信仰心の篤い親切な人はうちに泊まらないかと声をかけることもあったが、少年は誰にも頼りにならなかった。ごはんにありつけない日も、三日三晩歩き続けた日も、少年は泣き言ひとつ言わなかった。硝子を集めることだけが少年の生きる道だった。
 少年がまだ温かなベッドの中で母に抱かれて眠っていたとき、少年の母はよく彼に物語を聞かせた。
 世界には隠された宝石がある。何でもない姿に扮しているから普通の人には気付かれない。すべてを拾い集めた者は世界で唯一の幸福を手に入れる。そのうちのひとつが、祖母の形見であるこの橙色の硝子。ネックレスにしてお守りにしている。私はこれを集めようとは思わない。幸福の欠片だけでも手元にあるなら、それで私には十分だわ。あなたという美しい宝石を私は手に入れた。きっとこの硝子のおかげよ。
 母親はそう言って、少年の豊かな頬を撫でた。今、少年の痩せこけた頬を撫でる者はいない。愛されていた記憶が少年を突き動かすのか、母親の記憶さえも忘れ屍のように足を運ぶのか、誰にも分からない。少年は口を噤んだままである。

 夜の帳が下りるころ、少年は体を震わせて街を歩いていた。泥だらけで穴が開いたシャツにどぶの匂いが取れないズボンを履いて、薄茶色のリュックを背負っている。もうすぐ雪が降る季節だ。太陽が暮れると気温が急激に下がり、凍えるような風が少年の体に容赦なく吹きかかる。どこかで体を温めたいと酒場をうろつく。旅の途中、落馬して死んだ男を見つけて男のバッグから金貨を盗んだ。これがあれば酒が飲める。すぐにでも穴が開きそうな薄っぺらい靴では少年の足を温めるには不十分で、一歩進む度に凍えた足がキリキリと痛む。肩を抱き合いながら酒瓶を片手に闊歩する男たちが少年に唾を吐き、笑う。少年は体についた唾を拭うこともせず俯いたまま歩く。
 看板が逆さになっているぼろい酒屋に踏み入れた。入り口の前で麦酒を持って騒ぐ赤ら顔の男に顔を覗き込まれて「汚ねえガキだなあ!」と言われるも少年は無視し、店主に酒を求める。店内では歯も髪も足りないおばさんがシャツを着た青年に怒鳴りつけている。床板は剥がれて虫が走る。銃弾の痕も残っていた。少年が酒の名前を伝え、金を渡そうとしたが、店主は鼻で笑うだけだった。少年はすぐにでも酒を飲みたかったため、金を多めに握ったが反応は変わらない。少年は三度、店主に声をかけた。すると店主は酒を注いだかと思うと少年に見せつけるように自分で飲み干した。少年は店主を黒い目で見つめた。
「子どもに飲ませる酒なんてねえよ」と、店主は言うと、客のおばさんが大口開けて笑う。
 少年は酒を諦めて帰ろうとするも、道で少年に唾を吐いた男たちがちょうど店に入ってきて、少年の首根っこを掴んだ。足が宙に浮く。首が閉まって藻掻く。びゃーびゃーと鼠のように騒ぐ少年を男たちは殴りいたぶる。何度も顔や腹を痛めつけられ、口の中に嫌な鉄の味が広がり眩暈がする。男たちの腕を噛みついて怯んでいる一瞬の間に少年はリュックを抱きかかえて小動物のごとく逃げ出した。「臭いガキが酒場に来るな!」「家でママのおっぱいでも吸ってな!」という男たちの声が少年の頭に響く。少年の足は限界を迎えていたが、屈辱を忘れるために全速で走った。
 少年は足を止めて息を整える。全身がズキズキとする。頭上の星空に気付くと糸が切れたように体が緩み、その場で座り込んだ。目の前はレストランだった。レストランに行く者も去る者も、みんな等しく豪華な洋服で着飾っている。妙齢の女性は流行りの羽根付きの大きな帽子を被っているが、少年には鳥の巣を頭に乗せているようにしか見えなかった。
 レストランから出てきた男女がお互いの体をしつこく撫でながら話を始めた。少年は陰に隠れる。
「ねえ、さっきの燕尾服がぱつぱつの醜い男、見ました?ベルトがおなかに食い込んでソーセージみたいだったわ!」
「ああ、あれは昨晩やってきた屑だね。田舎者を恐喝して安く仕入れた物品を、都市に運んできては言葉巧みに民衆を騙して高額で売りつける最低な男だと噂だよ」
 男は女の尻を撫で回し、女は下品な声で喜ぶ。
「なあに?有名人なの?」
「まあね。あの男に恨みを持ってる奴は大勢いるよ。しかし、あいつの隣にいた娘はえらい可愛かったなあ」
「やだ!若い子がそんなに好きなら私、帰りますわ」
 平謝りする男の腕に女は絡まって頬を紅潮させる。2人は酔っ払いの乱れた足取りで夜の街に消えた。少年はぼんやりと星空を見て、2人がこれから何をするのか想像する。
 レストランからまた人が出てきた。今度はドレスを着た女が2人。1人は少年と同じくらいの年齢の少女。波打った黒い髪をピンクのリボンで留めている。レースをたっぷりと使ったドレスだが、洗練されて無駄がない。もう1人は少女の付添人であった。焦げ茶色の地味なドレスを着ている。少女が何かを話すと、付添人は渋い顔をして首を横に振る。しかし、少女は構わずレストランの前を自由に走り、踊りだした。ドレスをふわりと揺らして、星空を仰ぎ、ワルツのリズムで器用に踊る。少女の鼻歌がかすかに聞こえてきて、少年はくすぐったい気持ちになる。かつて母親が聞かせてくれた曲だった。一瞬、雲から顔を出した月の明かりで何かが反射して少女の足がきらりと光った。よく見ると少女の靴には少年が集めている硝子の破片が飾られていた。硝子の下にはリボンが結ばれて、まるで宝石箱に入った宝石のように硝子は眠っていた。少年はまさかと思い、目を見張るが間違いなかった。もう一方の靴もとても似たような橙色の石が置かれているが、そちらは硝子ではない。左足にだけ硝子がはめられている。疲労困憊で意識が朦朧としていた少年であったが、硝子の存在を確認するや否や、どのように少女からその靴を奪うか考える。今は力が出ないが、明日、人気が少ない場所で、彼女を襲えば一瞬で手に入る。少年は脳内で少女を押し倒し、靴を奪い去る情景を描いた。何度も想像し出来ると確信したとき、少女が声を出した。
「あっ」何かが地面に落ちた音がした。
「靴が脱げちゃったわ!どこかしら。暗くて何も見えない」
 少女は付添人の袖を引っ張る。
「もう戻らないとお父様が心配なさるわよ!全くいつまで子どものつもりなのかしら」
 付添人は片足立ちの少女を置いてレストランの中へ戻っていった。
 少女はその場で寄る辺なく、靴が落ちたであろう場所を目を細めて見るが、暗闇に紛れて何も見えないようだった。このチャンスを逃してはならない。少年の体は本能的に動いた。動物のように地面を這い、音を立てずに近づいた。少年が靴を手にしようとした瞬間、再び雲が月の上から消えた。辺りはやや明るくなり、硝子がきらりと輝く。少年と少女は目が合った。少年は蛇に睨まれた蛙のように硬直する。少女は少年のぼろぼろの姿を見て驚いたが、すぐに笑顔を作って言った。
「取ってくださるの?ありがとう」
 少女はお辞儀をする代わりに、靴を履いてない左足をぶらぶら振った。
 少年の全身の緊張は解けない。鳥肌が立ち、すくんで返事も出来ない。そのまま靴を盗むこともできたはずが、できなかった。ただ、怯えた表情で少女を凝視している。
「あなたはこの辺りに住んでいるの?」少女が少年に声をかける。
 少年は首を横に振った。
「そう、私もここの人間じゃないの。今日は家族で食事よ」
 少女は両腕を使ってバランスを取り、片足で器用に立っている。左足を宙でふらふらさせたり、円を描いたりして遊んでいる。少女はぴょんぴょんと跳ねて少年の方へ近づいた。一歩、一歩と少女が近づいてくるたびに、少年は心臓が高鳴った。そして少年の前に落ちている少女の靴を拾った。少年の目の前で靴を履き、軽くステップを踏んだ。
「私、しばらくはここに滞在するから、もしよろしければまたお会いしましょうね」
 と、少女は少年に言っていたずらに微笑んで小走りでレストランへ戻っていった。少年は目をぱちくりさせている。硝子の破片は去ってしまった。

 その後、少年は酒を楽しむ人間たちの声から遠ざかるように街を当てもなく歩いた。真っ暗闇の中、人のいない2階建ての廃屋を見つけた。近隣や家の窓の様子を見て浮浪者や動物が住んでいないと判断すると、少年はそこに泊まることに決めた。ガタつく玄関の扉を恐々と開ける。目の前にある崩れ落ちそうな階段を慎重に上り、先客がいないか確かめてから突き当りの部屋に静かに入る。狭い部屋だ。真ん中に小さなベッドが置いてある。窓が大きいがひび割れて隙間からひゅーひゅーと風が入る。長さが窓に合っていないカーテンは埃を被り、先が千切れている。本棚に数冊、本が置かれてあったが、少年は文字が読めないためそれが何の本なのかは分からなかった。よく見ると壁には額縁がかかっていた。男の肖像画のようだが、真ん中に鋭利な物に突き刺さした痕が残っており無様に破壊されていた。ベッドにひかれたマットはかび臭く、尿の匂いも漂う。しかし、外で寝るよりもずっとましである。少年は疲れ切っていた。リュックを抱きかかえてすぐに眠りに落ちた。

 あくる日、少年は空腹に耐えかねて市場に来た。昨晩の酒場での喧嘩の最中、どさくさに紛れて誰かに金貨を取られていたらしい。一文無しとなった少年は、人の目を盗んで売り物を盗むしかなかった。廃屋には前の住人の洋服も落ちており、少年の体にはまだ大きいが、袖を捲って無理やり着た。
 賑やかで明るい市民たちは、店員に話しかけて店を回る。野菜や肉が色鮮やかに並び、いい匂いも漂ってくる。八百屋の前で今日は何を買おうかしらとご機嫌のお母さまであるが、後ろからゾッとするような視線を感じ、振り返る。そこには少年が立っていた。少年は長い前髪の隙間からリンゴを睨んでいた。店に立つ男性や、常連客の女性はいつもの客の中に浮浪者のような姿の少年を見て、耳打ちをする。少年の存在を迷惑に思い、文句とともに石が飛んできた。少年はその石を避けたが、他の客にぶつかってしまった。「誰だ今石を投げたのは!」「そこのガキを追いやっちまえ!」。女も男もぎゃーぎゃーと言い、騒動が大きくなる。平和な朝の市場が途端に殺伐とした空気に包まれた。図体の大きい男たちが殴り合いの喧嘩を始めた。ヒステリックな女の声が耳をつんざき、幼い子どもが大声で泣く。野次馬がわらわらと集り、市場は騒然としている。少年は慣れた手つきで品物をリュックいっぱいに詰め込んで盗んで逃げた。少年を怒鳴る男の声が聞こえてきたが、追ってくる者はいなかった。
 市場からだいぶ離れたところまで走ってきた少年は息を整えて、人影が少ない場所で食事にありつく。今日は運が良かった。これで当分空腹は免れる。少年は豪快にパンを食べている。食べ物に惹かれたねずみが足の上を走るので、少年は強く蹴っ飛ばした。ねずみは壁にぶつかって落ちた。ぎゃっと声が聞こえた。それは鼠の鳴き声ではなかった。鼠が落ちたところをよく見ると薄汚れた布団があった。その布団で人間が寝ていたらしい。少年は飯や荷物を取られるかもしれないと咄嗟にリュックを守る姿勢を取り、相手の動きを伺う。どうやら人間は起き上がる力さえなかった。少年は布団をめくり、人間の顔を見た。伸びきった髪の毛はところどころ抜け落ちて頭皮が見えてしまっている。皮膚がだるだるとたるんだおじさんであった。少年と同様、住処を失った人間だ。少年は何度も同じような境遇の人間に出会ってきた。はじめこそは親しくしてもらったこともあったが、すぐに付き合うことをやめた。死を目前に控えた人間が群れたところで明日を生きるのは不可能だった。おじさんは少年と目が合うと痛いと呻いた。少年はおじさんの声を無視し、盗んだパンを貪り食べた。ボロボロとパン屑がおじさんの顔に降りかかる。おじさんは目にかからないように目を強く閉じた。痛い痛いと呻き続けている。ここで親切にしたところで何になろう。今日死ぬか、明日死ぬか、同じことである。そうは思うものの、どうしてもおじさんをそのまま見捨てられず、盗んできた食べ物をひとつその場に置いて、少年は去った。

 少年は公園に立ち寄り、陽当たりのよいベンチに座る。ここ最近の寒さに体が慣れず、指先が震えてしまう。最後にお湯を浴びたのはいつだっただろうか。かつては暖炉で凍えた手足を温めて柔らかい毛布に包まって眠っていた。母親は硝子の物語以外にも、様々なことを聞かせてくれた。父との甘いロマンス。我が一族の繁栄。祖父が若かった頃、戦場で残した数々の伝説について。少年は時折、こうして失った平穏の日々を思い出す。だが、すぐさま想起をやめる。過去は現在の少年の体を温めることはない。腹を満たすこともない。すべて意味の無いことである。少年の頭からいくつかの過去はこうして消え去ってしまった。
 少年は昨晩出会った少女のことを思う。豊かで長く緩やかにウェーブがかった髪の毛がまず少年の頭の中に呼び起される。幼い娘のような柔らかな表情に似合わない少し低い声。気にせず夜に踊る自由奔放な腕、足。その先の履かれた靴、とその飾り。少年は硝子のあの靴飾りをどうしても手に入れたかった。あの瞬間、なぜ僕は靴を奪って逃走できなかったのか。少年は一人、思い悩む。少女の微笑が脳裏に浮かぶ。せめて、もう一度出会えたら。
 「あら、昨晩の」少年が指を組んで俯いていると、頭上から聞き覚えのある女性の声が聞こえてきた。顔をあげると、たった今思い浮かべていた少女の顔が目の前に現れた。少女は昨晩と異なり、質素な服装をしている。髪の毛は緩くひとつに結わい、生成りのブラウスにブラウンのスカートをはいている。少年は少女の顔を確認するや否や、少女の靴を見た。今日は動きやすそうなブーツを履いていた。少年は少し落胆したが、ふと舞い降りた好機を逃すまいと、昨晩と打って変わって少女に積極的に話しかけた。
「やあ!き、きみは、レストランで出会ったね。えっと、寒いね。ごはんは食べた?調子はどう?」
 少女は少年があまりに不自然に話すので、噴き出してしまう。
「うふ。私、エリス。あなたのお名前は?」
「名前は……忘れた」
「名前ないの?珍しいのね。まあいいわ。私、ちょっと急ぎなの。週末改めてここでお会いしません?」
 少年は少女の瞳を見つめて、何度も首を縦に振る。
「それでは週末にね。お元気で」少女は小さく会釈をすると、スカートの裾を持ち上げて小走りで去った。「さようなら」と少年は口にしたが、そのときにはもう少女の姿は見えなくなっていた。少年は自分の手を左胸に持っていき、普段よりも強く鼓動する心臓を不思議に思う。

 少年は少女と会う週末までの間、この町に他に硝子の破片がないか探して回っていた。市場のはずれ、小学校の周辺の住宅街、治安の悪い酒場の通り、公園、病院、とにかくあらゆるところを歩いた。少年が探す硝子の破片は、いろんな形で少年の目の前に現れた。ある町では、何気なく散歩していたときに出会った。前から歩いてきた白髪の紳士が自らのポケットからハンカチを取り出す際、キーチャームを落としてしまった。少年の足元にそれは落ちたが、紳士は落としたことに気が付かず人混みへ消えた。少年がキーチャームを拾うと、橙色の硝子が球体状に加工されてぶら下がっていた。こうして偶然、少年の手中に収まった。また、あるときは、ホームレスのおじさんに自分の旅の話を聞かせたところ、似たような《宝石》が銅像に埋め込まれていると教えられ、教会の前の大広場の立派な銅像に確かに少年が探す硝子の破片があった。銅像は2メートル近くあり、教会の前で人通りも多く、破壊して奪取するには到底無理があった。数日間、町に滞在し、諦めようと思ったその晩に大地震が起き、銅像は地震によって砕かれて、地面に散った。少年は瓦礫の中から硝子の破片を見つけ出した。少年は何か特別な力があるのではないかと感じていた。家族と故郷を失い、母親からネックレスを託されたとき、少年にはこれから進むべき方角が分かった。何かに呼ばれるようにして、寝食を忘れて体の行きたい方へ足を進めた。故郷から数百里離れた山奥の湖の底に、それは落ちていた。湖底で眠る硝子の破片は、少年と目があったとき喜ぶように光りを放った。水草が少年の体を避けるように、道を作った。そして優しく拾い上げて陸に戻ると、再び少年はどこからか体が呼ばれるような感覚に襲われた。この繰り返しで少年は今日まで旅を続けていた。特別な力がどんなものかは少年は興味がない。とにかく橙色の硝子の破片を集められればそれでよい。少年はそう思っていた。

 小春日和の週末がやってきた。少年は宿泊地を発ち、急いで約束の公園までやってきた。公園の木々は紅葉していた。少年はベンチに座るとリュックからゴミ箱からかき集めた食材を取り出して頬張る。葉が少年の頭に乗った。肩にも乗った。膝にも乗った。少年は払うことなくご飯を食べている。少女が遅れてやってきた。少年の体に落ち葉がたくさん乗っているのを見ると、先日のように肩をあげて笑った。頭に乗った葉を手に取って、くるくると葉を回して、ぱっと離した。風に乗ってどこかへ飛んでいくかと思いきや、その場で一周してまた少年の体に引っ付いた。少女はおかしくてまた笑った。
 少女は嬉しそうに少年の隣に座った。今日は硝子の飾りをつけた靴を履いている。落ち着いたネイビーのポンチョを着ていた。少女の髪の毛は頭に沿うように編み込まれてまとまっている。濃緑のスカートには黒と金色の糸で花や草の刺繍が施されていた。
「久しぶり」と少女は言った。少年は返事をしようと思うが、声を出すのが1週間ぶりだったために声にならない変な音を喉から出してしまう。
「あなたは、家がないの?家族は?」少女は爛々と目を輝かして少年に尋ねた。
「あ、え、うちは、家はない。家族もいない。……旅を、している」
「そうなの。私も旅をしているわ」
 少女の父親は貿易を生業にしているらしい。そのために世界各地に飛び回り、地域にしかない特別な商品を見つけて取引を行い、都市部へ戻ってきてそれらを売るのだと言う。父親だけで旅をすることはせず、必ず家族や世話係、そしてその家族までも連れて船に乗り、汽車に乗る。大所帯で移動するから、サーカスか何かと勘違いされることも多い。そんなときは、むしろサーカスと思わせておいてどんちゃん騒ぎを起こす。同席した紳士ご婦人にお酒を振る舞い、連れてきたピアノの教師にワルツを弾かせてダンスを踊る。父はとてもユーモアな人なのと少女は語る。
 少女はその旅の様子を身振り手振りを交えて愉快に話した。旅先で出会ったいかにも怪しい調剤師が眼鏡を外したらどこかの国の王子様じゃないかと思うほどかっこよかっただとか、何でも美味しくなるとその地域で評判の香辛料の実態がネズミの頭蓋骨をすり潰しただけだったとか、これまで旅をして出会った人物や不思議な食べ物、おかしな出来事を語った。少年は最初こそ緊張で表情がこわばっていたが、少女の語り口が面白くおなかを抱えて笑った。世の中にこんなにも面白いことがあるなんて思いもしなかった。
 少女の話がひと段落すると、2人の間に沈黙が訪れた。風が吹き、また少年の髪の毛に枯れ葉が落ちる。「まあ、葉っぱは本当にあなたのことが好きなのね」と言いながら、少女は葉を取ってあげた。少年に向けられたその指は細く美しかった。少年は少女が指輪をつけていることに気が付いた。
「まあ、父は……嫌われているみたい。お金を稼ぐのは大変よ。仕方ないわ」と、ため息交じりにつぶやいた。少年は、少女と初めて出会ったときの直前に、醜い男女が噂話をしていたことを思い出した。
 少年はこれまで黙って聞いていたが、口を開いた。
「その……その、今履いている靴の飾りも旅の道中で購入したものなの?とてもきれいだね」
 少女は愛おしそうに飾りを撫でて答えた。
「これはね、××に行ったときに頂いたものなの。腰が曲がったちょっと風変わりなお婆さんだったわ。まるで森に住む魔女ね。私がメイドのミランダと町を散策していたの。道に迷ってしまって、困っているところをそのお婆さんが見かねて助けてくれた。お婆さんは私に堅く握手をした。その木の枝のような指に不思議な力を感じたわ。それから、この靴飾りを私に手渡した」少女は靴を指差す。
「橙色の硝子なんて珍しいでしょう。道を教えて、こんな素晴らしいものまでいただいて、どうしてこんなにも良くしてくれるか尋ねたのよ。そうしたらお婆さんはこう言った。
『これは貴女が持つべきものだからよ。そして、貴女は幸せになる人です』と。」少女の瞳は夢を見る乙女のようにどこか遠くを見つめていた。
 少女はそのお婆さんが語ったと言う、硝子にまつわる物語を語ったが、その内容はまさに少年が幼少期に母親から何遍も聞かせてくれた物語と同様のものであった。少年は驚いたが少女にはその物語を知っていること、硝子を集めていることは伝えなかった。
 少女は空を見上げながら「私は本当に幸せになれるのかしら」と言った。雲は少女の言葉を知らんぷりして流れていく。
 硝子の破片を他の人が持っていたことは以前にもあった。そのたびに少年は殴ってでも奪い取った。少年には硝子が全てであった。しかし、少女からはとても奪おうという気持ちにはならなかった。奪いたくはない。硝子は欲しい。心の矛盾がずれ落ちた靴下みたいで気持ちが悪いと少年は思う。今日手に入らなくても、次に手に入れたらいい。またチャンスは来るだろう。少年は自分にそう言い聞かせた。
 少女は少年と目を合わせずに言った。
「そうね、あのときのお婆さんから感じた不思議な力をあなたからも感じるわ。なんだか奇妙な縁のようなものを感じるのよ」
 少年は勇気を出して少女に言った。
「もしよければ、また来週もここでお話しない?僕はいつでも暇だから」
「ええ。来週も会いましょう」と少女は答えた。
 2人はベンチから立ち上がった。少女がもうそろそろ帰宅しないといけない時間だと言うので、少年は少女を公園の出口まで見送る。噴水の前を過ぎ、砂利道をまっすぐ進む。少女の足取りは一歩ずつ地面を確かめるようにゆっくりと動くのに対し、少年はいつもの癖で何かから逃走するかのよう、両足を早く動かす。少女は少年の歩幅に着いていくのに精一杯だ。時折、足を止めて少年を呼び止める。もう少しゆっくり歩くように促しても、少年の長年の癖は治らない。少年は誰かの歩幅を気にして歩いたことがなかった。気にかけてはいるものの、少女の歩幅に合わせることが難しく、少年は気まずい思いをする。少女は健気に少年の隣を歩くが砂利道が彼女の体力を奪った。そして足が上がらずに躓いて、手をついて転んでしまった。小石の上でうつ伏せになり、足を大きく開いてしまう。ドレスがめくれ上がり、彼女の白い太ももが露わになった。少女はうまく立ち上がることができず、みっともない姿で藻掻いている。少年は転んだ少女に手を貸さず、無垢で柔らかそうなその太ももを長いこと見つめていた。もうすぐ太陽が沈み始める。

 少年は公園から廃屋へ帰宅すると、飛び乗るようにベッドに腰かけた。バネは弾まない。ギシギシと嫌な音を立てて少年を拒む。少年はお構いなしでリュックからりんごを取り出した。虫に食われているが、気にせずに大きな口を開けて頬張る。猿のように咀嚼するから、唇の端から果汁が溢れ、あごに伝って、落ちた。
 少年の頭の中は昼下がりの公園。少女の笑い声、間延びする喉の音、表情豊かな眉毛の動き、指先を唇に持ってくるときの大人びた仕草、首に見えた小さな痣、転ぶ瞬間の情けない悲鳴、柔らかな太もも……。フクロウの鳴き声が廃屋に響き渡る。どこかから入り込んだらしい。少年の右手は自分自身を慰める。少女の太ももの奥、決して少年が触れることのできない少女の深いところを夢想して、果てた。少年はベッドに横たわるとリュックの中から硝子が入った革袋を取り出して祈るように胸に抱きよせた。硝子たちは黙っている。フクロウが屋内に入ってくる物音が聞こえた。鳴き声が増えて輪唱をする。フクロウを悪魔だと少年は思う。フクロウの鋭い爪で体を突き刺されたい。そのまま遠くへ運ばれて誰もいない枯れた山に捨てられるのだ。少年は眠った。

 この日の少女はいつもと様子が違っていた。どこか落ち着きがなく、顔が真っ青だ。体調でも悪いのだろうかと少年は心配に思う。少年は先日、少女を転ばせてしまったことを詫び、一輪の野花を持って公園にやってきたが、少女は色とりどりの花束を抱えてやってきた。少年が手に花を持っていることを気付くと、少女は「かわいらしいね」と微笑む。少年は恥ずかしくて立派な花束を持つ少女に花を渡せないでいる。
「きみの花の方がきれいだ」と、少年が言うと少女は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「まあ、そうね。花はきれいよ」
 少女は続けて捨てたくてたまらないけどと小さく呟いた。少女は先ほどまで許嫁のところへ挨拶に行っていた。挨拶とは名ばかりで、許嫁が少女を一方的に弄び、乱暴に愛した。少女の不幸な結婚は父の業績が悪化したためだった。父親に売られたのだ。
 少女は少年と一緒にベンチに座ると、おなかを撫でた。そして、この話は聞いたらすぐに忘れてほしいと前置きをしてから思い切ったように語り始めた。
「私、恋仲の男性がいるの。前回の滞在地で出会った方で、郵便配達員をしているわ。それでね、わ、私、アランの子どもを妊娠しているの。計算すれば許嫁と出会う前に妊娠しているのは明らかよ。まだ誰にも、アランにさえ言っていない。」
 少女の声が震えている。
「私だって父の力になりたいと思っているわ。だから、さっきまであんな酷い仕打ちに耐えて……。これまでだって耐えてきた。でも、もうこれ以上は耐えられない。私、アランと一緒になりたい。でも、逃げ出せない。私もアランもお金を持っていない。今日だって嘘をついてホテルから出てきて……、私のすべては父のためにあるのよ。私の人生なのに私の人生じゃないの。どうしたらいいと思う。あなたならどうする?私、幸せになりたいだけなのに!」
 少年は、ああと声を漏らすだけで何も話せなかった。何度も暴力や理不尽に襲われてきた少年だったが、少女がこれまで受けてきた屈辱は少年にはまるで想像もできなかった。泣いて震える体を抱きしめることさえできない。自らの無力さに惨めになる。カラスの鳴き声と少女のすすり泣く声が嫌に耳に残り、少年は頭が痛くなる。
「ああ、こんなに人前で泣いてしまって、ごめんなさいね。私ね、それでも……この、この硝子の飾りが私を幸せにしてくれるって、ずっと信じている。だって、あのお婆さんの瞳が嘘ついているようには見えなかったもの。きっと、最後は幸せになれるわ」
 少女のその言葉は痛々しく苦しかった。少女の執念にも似た硝子への祈りを目の当たりにして、少年はリュックの中の革袋を渡してしまおうと思った。少女が幸せになるのなら、これまでの自分の人生を明け渡してたってよかった。ただただ少女の笑う顔が見たかった。少年はリュックを胸に抱き、中から革袋を取り出そうとする。が、どうしてもそれができなかった。何か、少年以外の力によって押さえつけられているようだった。体がどうしても硝子を手放すことを許さなかった。少女が顔を手で覆い、大粒の涙を隠す。隣で悲しむ人がいるのに何もできない。少年まで涙が出そうだ。少年にはこういうとき、どうしたらいいのか知らなかった。少年が悲しいときやつらいときにそばにいた人はいなかった。母親がいた頃はまだ、悲しみに出会わなかったから。
 少女は泣き止んだ後、ずっと黙っていた。虚空を見続けていた。葉が落ちて少年の肩に乗った。そして少女の膝にも落ちてきた。2人は何も言わない。触れることのない手が寒さで凍える。少年の気付かぬ間に手から野花が落ちた。時間が流れる。少女の帰る時間になると、また会う約束をして別れを告げた。少女は魂が抜けたような顔をして、花束を忘れて帰ってしまった。少年が仕方なく、その花を家に持って帰った。嫌になるほど綺麗な花束だった。

 少年が寝泊まりする部屋に夕陽が差す。普段は暗くて見えないが、光に当たると床の色は血が滲んだように見えた。穴があり歩くたびにギシギシと軋む。少女がたくさん泣いた日以降、少女が許嫁や恋人の話をすることはなかった。泣いていたのが嘘のように明るく少年に接してくれた。それでも時々隠し切れない少女の悲しみが少年の心を濡らす。
「おっと」
 少年が何気なく足を置いた床板が抜け落ちた。危うく下に叩き落されるところであった。雨漏りが酷いため木が腐っている。キノコが生えて埃と虫と垢だらけのこの部屋も、何日か暮らせば愛着が湧く。少年はベッドに横になり、全身でぐらぐらと夕陽を感じていた。冷えた肌が少し温くなる。目を閉じても眩しいくらいだ。まぶたの裏の血管に血がトクトクと流れる。少年が訪れる前にも誰かが寝泊まりしたのだろうか。同じベッドで横になり悪夢に苛まれただろうか。それよりももっと前、この家の壁紙がまだ剥がれ落ちていない頃、その頃からこのベッドと夕陽は変わらずに人間を包んだのか。少年は自分の思考が流れるままに任せた。夕陽は集めている硝子の欠片によく似た色をしていた。それは幸福の色だ。幸福は優しく燃える炎なのだ。遠すぎず近すぎず、このように少し皮膚の表面だけ温まればそれでよい。汗が吹き出るほどの幸福は望まない。ふと、少年の睫毛が濡れた。この美しい夕陽を少女に見せたいと思った。自分の目を、少女の目にしたっていいと思った。少女の行けない場所や知らないことをこの目で彼女に見せてあげよう。何度も幸福の夕陽を浴びよう。たとえ僕に何も見えなくとも少女が喜んでくれるなら構わない。少年は少女と会っていない時間もずっと少女の幸福を願い続けた。フクロウが少年を見下ろして鳴いた。

 少年が路地裏でゴミ箱から見つけ出したご飯を食べようとすると、以前出会った家のないボロボロのおじさんに出会った。立ち上がってこちらに接近してくるおじさんを見て少年はぎょっとした。襲われるかもしれないとナイフに手を添えて身構える。
 おじさんは少年の前に立つと少年をまっすぐ見つめた。
「君は以前に比べて和やかな表情をしている。そう、きっと幸せなことがあったのだろう。私にもかつて隣人を愛し、己を愛した日があった。今は死が私を迎えに来るのを待ち続けている。私はこれほどに死を待ち侘びているのに、一向に死ぬことができない。先日、君と出会った日。あの日の私は終始意識が途絶えて、目を開けても閉じても視界が白く、全身の痛みから不思議と解放されて私はこのまま死ぬのだろうと思った。だが、私の腹に何かが落ちてきてちょうど腹部の傷口に当たり、全身に激痛が走った。私は意識を取り戻してしまったのだ!しばらくして布団をめくり、君が私の顔を覗き込んだ。君は野獣のように無骨で怯えた表情をしていた。私は死神を待っていたのだ。君のような餓鬼がまさか、私を見つけるなんて。ああ、死ねなかったのだよ。君のせいで。君の幸福、君の望みはきっと叶うだろう。私を"生かす"ほどの力があるのだから」
 おじさんは大声で笑った。何度も何度も、膝から崩れ落ちるほど笑い転げた。あまりに大声で叫ぶような声で笑うため、最後は咳込み、血を吐いた。血を見るとおじさんはまたげたげたと笑った。少年は恐ろしくなり遁走した。少年が消えたのち、おじさんは立ち上がり遠くを見つめて呟いた。しかし、君のおかげで最期の望みであった娘の成長した姿を見ることができたのだがね、と。

 この日は少女の方が先に公園に来ていた。少女は初めて少年と会った日と同じ、美しいドレスを着て、ケープを羽織っていた。そして橙色の靴飾りを靴に付けている。今晩少女は許嫁と食事に行く。少女は乗り気ではないが先方と父親には逆らえない。「こうやって綺麗なお召し物を身に纏えることだけが喜びね」と腕にあしらわれたビジューを撫でた。雲が黒々と厚く重なっており、どんよりと暗い。少年は少女の座るベンチの隣に腰かける。木々は葉をすべて落とし、風は肌を切るほど冷たくなっていた。寒いね、寒いね、と2人は手をこすり合わせる。他愛のない話をぽつぽつと繋げると、少女は突然しゃべるのを止めて大きなため息をついた。それまで笑っていた顔に影が落ちる。
「実はね、もうこの町からお別れするの」
「また旅に出るの?」
 いつか別れが来ると分かっていたが、やはり寂しい。
「ええ、まあそうね。結婚するのよ。新婚旅行で海外をいくつか回って、妊娠して、その後は婚約者の生まれ故郷に戻って子どもを育てる。父は変わらず、家族を連れて旅をするでしょうけどね」
「そうなんだ」
「ええ。あなたとこうして過ごすのはとても楽しかったよ」
「僕も。エリスの人生が幸せだといいな」
 少年は心からそう思った。少女はありがとうと言って微笑むだけだった。泣き出すのを我慢しているようで、鼻の頭が少し赤くなっている。
「結婚式の日取りが決まったとき、私、アランに手紙を出したの。もう私のことは忘れてちょうだいって。お互いに不幸になるだけだわ。結ばれない運命だったのよ」
 少女は自分のおなかをさする。少年は否定も肯定もせず、黙って聞いている。
「でも、そうしたらアランから 『すぐに君を迎えに行くからね』ってお返事が届いて。私、その日はメイドに隠れて泣いたの。何度も何度も、涙が枯れるくらい泣いて、それでも涙が出て。アランがそんな風に言ってくれるなんて思ってもいなかったの。でも、アランは現れない。到着しててもおかしくないのに。でも、これでよかったのよ。アランは来ない。私はあの男の家に嫁ぐ。それが正しい。そうでしょう」
 少女は少年の瞳をまっすぐに見つめる。まるで少年の気持ちの奥底まで覗き込み、少女の望む答えがそこにあるか探しているようだった。少年は曖昧な返事しかできない。アランはどこかで事故に巻き込まれているかもしれない。少女に手紙を出した後、怖くなって逃げ出してしまったのかもしれない。そんなことを少年は思っても少女には言えない。少年は、自分がアランの立場だったらどうするだろうかと想像してみる。きっと許嫁を殴る。二度と少女に暴行しないように殺してしまうだろう。でも、そうしたら少女はどうなってしまうのか。父親から絶縁され、家族から追放され、今の僕のような生活を送ることになるかもしれない。少年は必死に少女の幸せについて考える。今ここで少女を誘拐してしまおうか。ここで姿を消して、2人で新しい人生を始めるのだ。でも、どうやって。家もないこんな僕がどうやってエリスを守れるというのだろう。僕にはできなくとも、アランにはできるのかもしれない。しかし、アランはここにはいない。頭の中で少女とアラン、そして自分自身のことを思い巡らせるが結論を出せない。体が動かせない。少女の幸せを誰よりも祈っているのに。少年は何も決断できずその場に立ち尽くしているだけだった。
 少女はそんな少年の態度を見て、目を逸らした。落胆していた。少女は最早、彼女を取り巻く現実から逃げ出せるのならアランでなくてもよかった。誰かに「エリス」であることを剥奪されたかった。名前がないという少年になら、ここではない違うどこかに連れて行ってくれると少女は淡い期待を抱いていた。おとぎ話を信じる子どもだったのだ。少女には王子様は訪れなかった。絵本の主人公ではなかった。それならば、と少女は思う。
 少年はポケットに入れた硝子の破片が詰まった革袋を握りしめている。少女は何度か時計を見て、時計の針が進むのを見ている。雨が降りだしそうな匂いがする。 
「ね、とにかくそういうことだから、あなたと会ってお話できるのも次が最後かもしれないね。」
 少女はにっこりと笑ってみせたが、いつもよりも不自然で作り笑いであることが少年には分かった。
「もう時間だから帰るね。また会いましょう」
 少年は公園の出口まで少女を見送る。少女の歩くスピードに合わせて歩幅を小さくして歩く。少女の頬に涙が伝う。少女が何かを口にしたが風に消されてしまった。少女の靴飾りが一瞬光を放って輝いた。

 公園を出た。狭い道なのに遠くから馬車が走る音が聞こえる。少女が少年に手を振った。少年はぎこちなく少女に手を振り返す。少年と少女を引き離すように強い風が吹き、少女の髪の毛を乱す。少年は少女の遠ざかっていく背中を眺めていた。そしてくしゃみをした。ひどく寒い。さびしい。
 少女は髪の毛を整えながら歩道をゆっくりと歩く。馬車が少女に近づく。スピードを落とすことなく歩道に乗り上げると、そのまま躊躇なく少女の体に突っ込んだ。
 大きな衝突音とともに少女の叫び声が聞こえてきた。馬の嘶きが響き、驚いた近所の住民が家から出てくる。少年は走って少女の体に近づいていた。
 少女を轢いた馬車の中から髭面の男が顔を出し、少女の死を確認すると薄ら笑いを受けべた。
「恨むならパパを恨みな、お嬢ちゃん」
 そう言い捨てて黒い馬車は付着した血も気にせず奔放した。
 横たわる少女の腹からは腸が露わになり、どくどくと大量の血液が溢れ出す。腕や足は不自然な方向に曲がり、美しい彼女の髪の毛が土と血で汚れた。瞳は虚ろに開かれたままである。口元には吐瀉物が散らかっていた。今まで何体も死体を見てきた少年はこの肉体が動かなくなった臭いに慣れていた。周囲の人々が医者を呼び、少女の保護者を探し、道路を掃除しようと騒々しい。眉毛の凛々しい青年が近づいてきて、彼女の名前を叫んだ。背格好からして少女が語った「アラン」なのだろう。彼は少女の死体を抱いて泣き叫んでいる。少年は無表情のまま、2人を眺めている。ああ……と声を漏らす少年の視線の先には少女が履いていた靴が落ちていた。橙色の硝子の欠片。この場に不釣り合いなほど美しく輝き、少年を呼ぶ。少年はゆっくりと歩いて靴を拾った。
「こんなもの、欲しくはなかった」
 少年は靴から硝子の破片を取った。手のひらにのせたそれは傷ひとつなかった。まるで彼女の暖かな微笑みのように輝いていた。幸福とは一体何だったのだろう。僕、そして少女の人生は何のためにあったのか。少年は強く硝子を握り、目を閉ざした。すると極めて小さな高音を立てて少年の体は腰から砕けた。あたかも彫刻だったかのように少年の体はさらさらと粉々になって白く散った。少年の体は白銀の砂や小さな砂利の山となった。そこに人間が存在していたなんて誰も思わない。
 その晩は雪がしんしんと降り積もった。少年の体の上にも等しく雪が降る。少年の体だった白い砂は雪に交じて消えた。少年のリュックの中で眠っていた橙色の硝子の破片は人間が見ていない間に世界のどこかへ飛び去った。硝子は次の持ち主のお迎えを待っている。