序文・鳥籠ラストページ

先日「なんで詩を書いているのか」といった質問を受けることがありました。
「傘と包帯」もありがたいことにもう三年目です。初心を振り返るという気持ちを込めて、この場を使って回答しようと思います。

"どうしたら人生の外に出られるだろうか?"
この切実な問題に座礁した人々は、それをなかったことにするだけで、解決の手立てを持つことができなかった。解は用意されていない。ただ象徴のように飛び立つ以外にない。内部で見つけた解では釈放されることはないからだ。

ぼくたちがこの世で目を覚ます以前の長い不在の間に勝手に構築されていたものがある。それは現実と呼ばれる透明な鳥籠だ。鳥籠の中に小さくうずくまる子供を誰もが肋骨の内側に抱えている。ぼくはその子供の涙を、その損失を食い止めるために、鳥籠をぐにゃぐにゃの流動状態に戻したい。鳥籠は絶対的なものではないのだから、背景である外の空間と同じレベルの絵として見ることができる。現実は人間の認識の集合体だ。そして現実は鏡である。鏡は<私>を<見る私>と<見られる私>に分割する。見たものを現実とするなら、鏡像である<見られる私>が現実となり、<見る私>である生身の人間はその柔軟性に欠けた現実の中を右往左往させられる奴隷になってしまう。空模様、行き交う人々、木々、イルミネーション、仕事や時間など、数え上げればキリがない現実を構成するすべてのものはその時の気分や細々した心理、状況認識等、<私>の色味を帯びてそこに反映されている。色味だけではない。気が急いているとき、木々やイルミネーションはその現実からほとんど消え去っている。逆に心から楽しんでいるときには時間が消え去っている。ぼくたちはずっとそれを見てきた。分割される以前には<私>が<私>自身の現実をつくっているはずだった。社会の一分子として(公共の、あるいは誰かの)現実に加担させられるまではそうだったはずなのだ。しかしいまでは過去につくられた<見られる私>だけが現実であり、流動性のない現実ばかりが鏡に映されているのである。流動性がないという性質を持っていること自体、それが<私>の現実ではないことを指し示している。

記憶は言葉でしかない。過去はどこにも存在しない。にも関わらず記憶は自己意識を形作り、過去に条件付けられた<見られる私>を強固にする。その記憶が育っていくと各人の認識する現実になる。言葉から意味を剥ぎ取ってしまえば、現実にはもともと意味なんてなかったということが判明する。鏡像はもはや<私>を縛る現実ではなくなる。そうなってしまえば自分以外に自分を使わせる理由がなくなる。上も下もない「本物の人間」としての自分との再会。メタモルフォーゼ。はじめに現実があるのではなく、まず自らが生き始めることで現実を創造するのだ。あとは独自の意味づけをした新しい現実を生きていける。これは夢の世界の導入だ。そこでは羽化した鳥籠の子供が蝶として自由に飛び回っている。

傘も包帯も鏡の現実ではどちらも自分自身を覆い隠すものだ。しかし独自の意味づけがなされた夢の世界ではなんにでもなりうる。夢の世界もまたひとつの現実である。そしてそれはいま直面している現実にリアリティの面で劣るものではない。なぜならその現実も誰かが過去にぶちまけた「個人的な意味」が積み重なってできたものだからだ。デュシャンが便器を泉と形容したように、マグリットがパイプの絵に「これはパイプではない」と注釈したように、ぼくは傘からも包帯からも役割を解放して歓喜と享楽の材料にしたい。鏡の現実を溶かして夢の世界へと変容させたい。そのためには覆い隠された自分自身が「本物の人間」として生き始めるしかない。それは自らの持つ固有性のままに生きるということだが、痛みも苦しみも感じる生身の人間が生きてやることなど他にあるだろうか。ドストエフスキーはこのことを「計算に入れ損ねる利益」と書いたが*、人生に対するすべての呪詛を帳消しにできる利益はこれ以外にないと思う。

人生をやめよう。人生はぼくたちの誰とも似ていない。偽物、レプリカ、模造品、その他あらゆる表現が考えられるが、どれだけ好意的に解釈してもいかがわしいマルチ商法以上のものにはならない。つまり従わせるための方便だ。じめじめした暗室の内側でぼくたちは嘘と猜疑心を育てている。人生はぼくたちの視界に暗雲をもたらす遮光カーテンだ。いまここに実在する旋律をすべて台無しにしてしまう。そして生は本物でしかありえない。心臓の内部に宿る輝かしい狂気。生は人生の外にある。

率直に言えば、ぼくは正直に生きたいのだ。伝わるだとか伝わらないだとか本当はどうでもいいと思っている。でももっと本当のことを言えば、夢の世界での遊戯的なコミュニケーションがしたいのだ。それは、彼が彼のように、彼女が彼女のように生きている姿そのままを楽しむような相互独立的な交流であり、そのような場において最大限表現されるであろう各々の特性がそこに供される贈与としてあるような戯れだ。そしてそれは、意味以前の「ただそこにそのようにある」生命に触れるということでもある。「ぼくときみ」が「ぼくときみ」のまま、序列にも記号にもならずに付き合っていくためにはそういうやり方でなくては不可能だと思う。

ぼくには「本物の人間」に対する憧れがある。質問者はぼくを「無の人間」だと評したが、そしてぼく自身それを否定しないが、だからこそ「本物の人間」を希求する力が強いのだと思う。あるいは物と春をなす**荘子的世界観に強く共感することも無関係ではないだろう。荘子思想の行き着く先は「ただ生命のままに生きよ」だ。詩は生の表現であり、「本物の人間」は生そのものだ。ぼくにとってそれは、与えられた生を自分の生として意味づけし直すプロセスということになるだろう。期待されるのは蝶の優雅さへのメタモルフォーゼだ。それは鏡現実の最終ページを書き終えることで達成される。だからぼくは詩を書こうとするし、他の人間にもどんどん書いてほしいと思っている。

ぼくがなんで詩を書くのか。それは「本物の人間」に会いたいからです。


2019.04 早乙女まぶた

*「実際に、ほとんどあらゆる人にとって、その人の最良の利益よりもさらに貴重な何かが存在するのではないだろうか? あるいは、(論理に矛盾しないように表現するなら)、他のあらゆる利益よりも重要で有利な利益(まさに例の、たった今話したばかりの計算に入れ損なうことになる利益)だ。そのためには必要とあらば、人があらゆる法則に逆らってもかまわない、つまり知性も名誉も平穏無事な生活も幸福も、一言で言えば、こうしたあらゆる素晴らしいもの、有益なものに逆らってまでも、当人にとってなによりも大切な、この根本的な最も有利な利益さえ手に入れられたら、それでかまわないと思うような、そういうものがあるのではないだろうか?」(光文社古典新訳文庫『地下室の手記』安岡治子訳)

**「「物と春をなす」とは、万物を春のように暖かく包み、すべてをそのままでよしとして是認することであり、万物斉同の理から当然出てくる態度である。」(第五 徳充符篇/中公クラシックス『荘子Ⅰ』森三樹三郎訳)

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以下は性格の悪い蛇足です。上述の内容を読んで、夢だの遊戯だのと子供っぽいやつだなと思った方がいたかもしれません。しかし、人は歳を重ねてなにをやるのでしょうか? 以前にはできなかったことをやるのです。決して大人と子供を区別して縮こまることではありません。分かりやすくするためにあえて大人とか子供とかいう枠組みを採用するとすれば、子供の頃にできなかったことを自分の裁量でできるようになるのが大人です。子供の頃よりもできることの少なくなっている窮屈な大人は、(なぜかそういう人たちが自負しているように)成長しているとは言い難いでしょう。「成長」という語にはどこかいかがわしい詐欺めいた重みがのしかかっているように感じますが、実際のところは「できることが増える」ということを意味しているに過ぎないのは大方納得されるところだろうと思います。ここまで読んでくださった方の中にはいないと思いますが、自分のことを大人だと思っている人がいたら「大人とか子供とかいう無形の鳥籠から自分を解放してあげたらどうですか」と声をかけてあげましょう。あるいは「おまえはおまえだ」と指摘するのが簡潔でいいかもしれません。