思考流 / 深井一

ぼくらは想像を絶して入り組んだ多次元峡谷の底に住んでいて、そこでは宇宙はこのような形をしている、すなわちエネルギーは保存し、時間と空間が広がり、物質は素粒子から成る、さてこの峡谷にはひとつの川が流れており、実はその水の一滴一滴がそれぞれ宇宙であって、ぼくらが住処としている宇宙もそのうちのどれかである、そして川の水がそうであるように、宇宙も流れの中でその形を転じてゆくわけだが、上流または下流においてそれらがどのような姿をしているのか、それはぼくらには知る由のないことだ、なぜなら認識という現象は僕らの宇宙の形と分かちがたく結びついており、ぼくらがぼくらの宇宙について知っているということは、ぼくらの宇宙という織物に織り込まれたひとつの模様に過ぎないのであって、本質的に上流ないし下流を流れているときに宇宙のとる形状と関わりを持つことは不可能だからだ、という意味では、ここでぼくの述べている内容もまた宇宙形状依存的なのであり、したがってこれは参照先の存在しない喩え話に過ぎないのだが、そもそもあらゆる命題は参照先不在の喩え話にほかならないのだから、警告、再帰深度が規定値をオーバー、状態ベクトルがゼロに収束します、強制ジャンプ実行、実行中、成功、回復します、――喩え話にほかならないのだからご容赦願いたい、ところで宇宙の形状は、その宇宙においてなにが起こり、またなにが起こりえないかによって特徴づけられる、たとえばぼくらの宇宙では孤立系のエントロピーは増大する、覆水は盆に返らないし、ボールは坂道を下り決して上らない、そしてぼくはこれらの喩えが物理学的に正当なものであるかあまり自信がない、それはさておき、宇宙はなんらかの意味で墜落を続けており、下降が上昇に転じることはなく、エントロピー捨場の供給が十分でなければ宇宙は熱死を迎えることであろう、ぼくらがぼくらの宇宙に認める秩序とは結局のところそうした墜落過程のひとつの経路に過ぎないということが重要で、つまりぼくらがいかに運命に抗おうとしたところで、書かれた言葉が紙面を破ったりはできないのとまったく同様に、そうした抵抗をも内に含んだ運命がただただ進行してゆくのに過ぎない、これは決定論とは無関係なのであって、そもそも決定論という観念についてぼくらが考えることそれ自体が宇宙の形状に依存している、なにがいいたいのかといえばつまるところぼくらは一編のお話、決定的に読み手を欠いた物語なのであり、認識にせよ法則にせよその共演者の一人であって、ぼくもそれらもお話の外側では一切の意味を持たない、そういうお話が川をなして多次元峡谷を流れている、ということを考えているぼくが書かれたお話が、警告、警告、警告、ブランチを切り替えます、――ところで宇宙の形はそこにおいてなにが起こりうるかによって特徴づけられると先に述べたが、これは正確には、なにが起こりやすくなにが起こりにくいかという確率的表現のほうが適切なのであって、たとえばインクを溶かした水が突如として勝手にインクと水に分離することはありうる、ありうるが、極端に起こりにくいがゆえに概ねありえない、もちろん一手間かけて蒸留するなどの経路を用意してやればありえない度合いは圧倒的に下がるので、ぼくらは原子炉をつくったりするわけです、恒星は天然ものなので安心安全である、さてたとえば日常生活においてぼくらがバクテリアを直接目にすることはそこそこありえないことに分類されるが、顕微鏡を用いれば可能なわけで、ここで顕微鏡は蒸留に対応している、ここでぼくはいつも思うのだが、顕微鏡でバクテリアを見るというかわりに、バクテリアの前に置かれた顕微鏡を見るといってもよいはずなのに、そうしないのがお約束というものなのだろうか、だがこれらは表現として等価なはずなのだ、とぼくは思う、顕微鏡で観察されるバクテリア現象、あるいは顕微鏡バクテリア現象を観察するぼく、はたまた顕微鏡バクテリアぼく現象を観察する誰か、すべては同じである、つまり一般化すれば、これまで知られていなかった宇宙の構造が新たな観測手段によって知られるようになったというかわりに、新たな観測手段が宇宙に新しい構造を付与したといってもよいということだ、しかしそのように表現されないのは、観測手段によらずつねに同様のバクテリアが観察されるからであろう、それはつまり、それらの観測手段が観測手段であるという共通項を備えているということである、これも突き詰めれば、宇宙には起こりやすいこととと起こりにくいことがあるというだけの話なのだけれども、と、ここで最終的に問題になるのが、類似性の概念である、というのも起こりやすいこととと起こりにくいことがあるというためには、それぞれの事象が分類され同定される必要があるからだ、宇宙的に見れば起こっているすべてのことはそれぞれまったく別個の一回的事象であるにも関わらず、ぼくらから見ると似ているものとそうでないものとがあり、それはいってしまえばぼくらの生活都合上の区分に過ぎないが、そうした区分が可能であるということは真に驚くべき事態であり、そこに神秘の影が落ちていることをぼくは否定できない、この神秘を定式化すれば以下のようになる、すなわち、適当な類似性の基準を立てることによって宇宙の圧縮表現が可能になる、換言すれば、なんらかの類似性を設けることによって生活が可能になるような構造をこの宇宙は持っている、ということで、ぼくらが宇宙のそういう都合のよい領域を住処にしているのだといってしまえばそれまでかもしれないが、そうした領域の存在がこのお話の書かれた紙面に穴をあけるための取っ掛かりになりはしないかと、ぼくは期待することなく期待している、というお話がこの宇宙には書かれ続けているのだ、誰にも読まれることなく。