序文

すべての道は帰り道でした。どこにも辿り着く場所のないぼくたちは、春をめくり続け、そのたび発見する日々を認識の陽だまりのなかで享受しているのです。そこで照らされた緑葉の詩的情緒は瑞々しい言葉となって、傘と包帯で覆い隠す前の複製禁止の自我を見せてくれます。

自我は世界全体と同時に配達された差出人不明の手紙としてつねに原因の世界を泳ぎ続けています。この自我に目覚めたエゴイストは「我思う」よりも先に、その他の何よりも先に「我あり!」と確信を持って叫ぶことができます。

原因の世界とは、幾重にもからまりあった因果の鎖を良くも悪くもない背景として一本の紐に還元する宇宙的密室です。一度もひとりで歩いたことのない赤子がそれでも自分は歩けると知っている無根拠性のゆりかごです。読み終えたら消えてしまう一冊の本のように自分自身を読む自我の遊戯場です。

そこにおいて人は、死の直前におそらく発見するはずの運命そのものであった自分自身の姿と同じように、いまこの時点にもすべてが許されていたことを目撃することになるでしょう。

原因は常に出発点です。どこにも向かわない帰り道の迷路をくぐり抜けて出発点に立ち続けることも、原因の世界にいるはずの自己に再会することも、結局は「個性」という語に還元できます。今回『傘と包帯』をつくるにあたってぼくが出した要望はひとつだけ、「個性を発揮してください」ということだけでした。そしてこれが生きることのすべてです。

とはいえこれは決して強制力を持った定言ではありません。自分が生きているということをシンプルに思い出すことができれば、自発的に展開されるからです。


思い出すこと。
それは忘れることと同義です。
自分自身を思い出してください。


2017.04 早乙女まぶた