序文・一期一会一花

人間を信じるべきではありません。なぜなら人間は論理ではなくどうあがいても本物でいることしかできないからです。論理は常に同じ答えを出力しますが、それと同じように人間が生きようとした場合、まず論理に擬態する必要があります。しかしそれはたとえどんな憧れを持っていたとしても完全に不可能なことなのです。

さっきまで互いに慈しみ合っていた春色の恋人たちが、突如として相手の心に雪を降らせ遠い孤独の中に逃げ出してしまうようなごくありふれた奇跡も、なんの根拠も持たずに現実を変容させるという超心理学めいた魔術であり、本物だけに許された能力です。これが大袈裟な表現に感じるのは、自分が本物であることが当たり前で、誰にとっても自然なことだからです。

上記はただの一例ですが、この例によって悲しみの感情を思い出す人のためにあえて付言すると、悲しい出来事に対して無意識に抱く「起こるべきではなかった」という思い込みは、やがてどうしようもない強制力で過去の特定の日付に置き去りにされていきます。こういう現象には誰しも心当たりがあると思いますが、「だから悲しむ必要はない」などと言いたいわけではありません。そうではなくて、むしろその悲しみに集中するべきだと言いたいのです。なぜなら問題になる程の悲しみを感じている場合、そこで直面している現実においてその悲しみ以上に本物に近いものはあり得ないからです。この悲しみもやがて<どうしようもない強制力>によって鮮度が落ちていくでしょう。そしてその頃にはまた違う奇跡が舞い込んでくるのです。

現に生きているこの場所が仮の住まいであるということさえ忘れなければ、夢も空想もすべては現実であることがわかります。虚構の物語や狂人の幻覚、あるいは臨死体験や空耳なども現実の一種だということです。この新しい現実は、しかし古くから脈々と続いてきたものでもあります。それなしではどんなものも成立しなかっただけでなく、それ以外には本当はなにもありませんでした。唯一存在している現実は、しかし唯一性を保持したまま複数発生しています。そして、そのようにしか見ることのできない現実自体が超現実のようでもあり、その超現実でさえもが見られた瞬間に既知のものとしてありふれた現実に成り代わってしまう。その霊媒的非合理性が、精神を王とするための革命に向かうシュルレアリストたちの時計を溶かしていったのでしょう。

現実と超現実に非現実を加えた三位一体を新しい現実として捉え直すなら、通例「現実」という言葉で表現されてきた客観的現実だけで満足しなければならなかったこれまでの認識の危険性をうまく回避することができます。客観的現実は、そこをうろちょろしている愛すべき魑魅魍魎各位の唯一性よりも「誰にでも理解できる」ことを是とする機械的狭量人たちの共用スペースであるため、新しい現実を知っている人たちには退屈であり窮屈にも感じられるのですが、超現実や非現実の方に少しの重心も傾けられないとするならば、人間はもはや数字に仕える召使いへと変貌し、やがて自分自身を一個の数字のように感じ始めた頃には苦し紛れのハレルヤで自殺してしまう、そんな事態になるのも無理はないとぼくには思えるのです。

継母の苛烈な意地悪のような客観的現実から意味の重しを抜き去るためには、新しい現実をかぼちゃの馬車で迎えに行くことで目の前の現実をきょとんとさせる必要があります。重要なのは、新しい現実は生そのものだということをはっきり認識しておくことです。

では、生とはいったい何でしょうか。

生とは、
嘘だと知りながら暗い映画館で涙をこぼすことであり、
色のない世界に手首から出した絵の具を添えることであり、
何も出てこないことを知りながら浴槽に釣り針を垂らすことであり、
愛らしいザリガニに糸をつけて街中を散歩することであり、
押し付けられた現実を拒絶する共犯者たちの微笑みであり、
傘と包帯の下に隠された深層心理のことであり、
それらすべてを包んだ一貫性のない物語であり、
生とは、つまりあなたのことなのです。

生を支えているのは、あなたがあなたであること以外になにもありません。自分を偽ることになにか意味があるでしょうか。そのたび生は腐蝕していくのです。

ぼくたちの現実も、そこに息づいている人間存在も、溶ける魚のように透明になって記憶の舞台裏に逃げていきます。現れたときには常に溶け去る直前である現実のすべて、各々が自分だと思っている存在も含めた人間のすべてが、一瞬で過ぎていきます。

もうお分かりでしょう。信じるとは虚像を愛することです。そして、道に咲いたかわいい花を発見したときのような「はじめまして」と「さようなら」の気持ちで日々を過ごすことで、それは避けることができます。

だからぼくは、もっとも広い意味で、そしてもっとも無責任な意味で*、こう言いたい。

人間を信じることはできない。しかし楽しむことはできるのだ。


2018.4 早乙女まぶた

* およそどんな楽しみであっても、その楽しみを誰かに制限してもらおうなどと考える人はおそらくいないでしょう。無責任とはそういう意味です。みなさんの自発性で、みなさんの創造性で、その範囲が拡張されていくのをぼくは願っています。