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大金持ちが宇宙(そら)へ行きたがる不思議さ。成功者とは一体何者なんだろうか

定かではないが風の便りで聞いた話

前澤氏は意外に昔からコンプレックスがあったと耳にしたことがある。今ではどのメディアも容姿などに関してはセンシティブになってるためか、あまり取り上げることはないが、身長の話題は彼にはやや敏感な問題と言われている。それはさておき、氏の公式プロフィールでは”ミュージシャン”の肩書もある。多くの男子諸君が思い浮かべるのは、音楽は女子にモテるという願望ではないだろうか。それは身長163センチ前後の前澤氏にも当てはまっていたのは想像できる。

今はなきアメリカ1980年代からキャリアを始め、映画『パープル・レイン』で一躍セレブミュージシャンの仲間入りを果たしたプリンス(プリンス・ロジャーネルソン)も欧米人としては160センチと決して高身長ではない。またどちらも人の捉え方次第だろうが、あくまで個人意見としていうならイケメンではない。どちらもそれが証拠と言わんばかりの”派手なパフォーマンス”が売りでもある。「宇宙旅行が長年の夢」、しかしながらそれは遠景を眺めるという単純な旅だ。それより行動の派手さはやはりセンセーショナルな話題として、絶対目立つには違いない。

音楽好きな私でもデビュー以前の福山雅治や、売れない頃のプリンスの楽曲は知らない。どちらも本人の希望通りにミュージシャンとしての評価よりも、どちらかと言えば容姿とカリスマでアイドル的扱いに強い憤りを感じていたとインタビューに答えている。コンプレックスの影は後に飛躍してからも本人の原動力に繋がっていることは珍しくない。

一方の前澤氏の”カリスマ性”、それは高卒ながらも若干23歳で起業し、破竹の勢いでアパレルを中心とした通販事業でなし得た若者ドリームそのものだろう。バブル崩壊直後から失われた何十年の中で鬱積した若者からみれば、堀江貴文も同様、自分に近い年頃の青年が一躍突出した才覚となれば、ヒーローとして応援する気持ちもよく分かるというものだ。

コンプレックスを原動力、それは正しいのか?

ここからは私の思いを含めて経験上で話を進めるが、結論から言えば劣等感から始まった猛烈な努力は虚しく終わる、そういった結論になる。そもそも自分が引け目を感じるという発想自体は集団や組織に所属して他人と比較するようなシチューエーションが無ければ発達しない。つまり、それは他動的に自発とは違う競争に打ち勝つという反骨心は養えるが、私曰くそれでは感性は決して育つことはないと思うからだ。

ゾゾタウンを改めて眺めてみると気がつくのは、一様にどの中小零細企業が目立つは仕方ないにしても無理をしている部分が目立っているということだ。流行とかトレンドといった定番はわかるにしても、やはりどう見ても一般向けのデザインから逸脱してはいないからだ。そこにあるのは郊外型ショッピングモールに勢いで出店した、名もなきアパレルと似たものがある。要するにステイタスではない。

ステイタスとは社会的地位や身分と言われることが多いが、IT分野ではシステム内の数値的役割の重要度を表す。要するにセレブレティや富裕層や高貴という意味は含まれていない。あくまでもCEOとかそういった役職などの、組織での立場や身分のことである。これを一般に戻して当てはめれば、”自分自身に自信がある”と言った方がしっくりくるだろう。

コンプレックスが強い人は、この”自分自身に自信がない”を逆転するために努力を惜しまない可能性が高いことは指摘するまでもないと思う。なぜなら日本人ほど欧米に対して羨望や憧れを抱いているこれほど顕著な民族はいないからだ。しかし、僅かだがそうでもない人もいるだろう。前澤氏はどちらかと言えば後者に見えるが、学歴、容姿、この2つでは日本国内のどこかで劣等感を感じていた時代があったと私は推測している。すくなくとも、今のすタイタスを除けば、彼がプリンスや福山雅治のアイドル的要素が原因で劣等感に続いてきたとは思えないからだ。彼等のコンプレックスはデビュー後である違いがある。

だから彼、前澤友作は一番になる必要があった。ここが私はやや悲哀に感じてしまうのだ。

成功者と呼ばれる中で前澤氏に無いもの

私が思うにそれは確固たる自負、つまり自惚れに近い自信だろう。数多くの創業者を見たり、あるいは実際に会長職に出会ってみる、直接話しを膝を突き合わせてお会いしてみると、彼等は人によってバッサリ好き嫌いが分かれるタイプが多い。良い意味では独善的でリーダーシップだが、裏を返すと妙に自信過剰なところがあるからだ。それだけに話は面白かったが。そこに悲壮な努力家の顔は見せない。つまりそもそもが劣等感など存在してないのは明らかだった。

彼がISSに接続される前に宇宙船の中で語った言葉、どこか対外的に発言していることが伺えるのも、それは自分は努力で夢を叶えたという評価を得たい裏返しにも見える。関係者から「カッコいいです!」と言われて、「ホント?」と嬉しそうに答える姿は微笑ましい。本当に嬉しかったのだろう。起業から20数年でここまでセレブレティに至ったのは、確かに凄いことだ。それだけにどこか悲哀もある。「そんなの決まってるだろ」とは、彼には言えない部分が根底にあるからだろう。この違いがソフトバンクの孫正義との差ではないだろうか。私にはそう感じる。

自信過剰気味で積み上げることしか頭に無い成功者は、欧米型経営者には非常に多い。彼等は冷徹なほど数値目標に焦点をあて、汚い言葉だが”世の中クソくらえ”とばかりに、我が道を征く。日本のかつての大企業創業者はこういうタイプが多かった。さしずめ街道を突っ走るトラック野郎である。しかし、今日の起業家や若いベンチャーはこれとは真逆だ。

妙に真摯で物分りが良い。

私は、どちらが現代の日本の牽引役として相応しいかはよくわからない。しかし今まで経験があるのは、無茶ばかりする変わり者の自信過剰な話の面白い変な経営者だったので、やはり石橋を叩いて渡る、あるいは世渡りが上手くて寛容な経営に対して期待値はない。

とある中古車販売の社長

最後に一つエピソードを紹介しておこう。今から約10年前、退職してしばらく静養中に乗らなくなった車を引き取ってもらった中古自動車販売の話だ。スタッフは誠実なものの、中に随分と”空気感”が違う人がいる。私は査定が終わってスタッフが家に来たとき、「あの方があんたらの社長だろう?」と尋ねた。驚き笑顔でどうしてわかったか?と聞いたスタッフに私は、「今まで会ってきた創業者と同じような人だからだよ。大抵決まってるものだからね」となぜ一発で見抜いたかをその後話した。後に書類を出しに店に行くと、やはりその若い我武者羅なチンピラ風情の社長は、初めて会った私に対して去り際にドアを出てまで頭を深く下げていた。私はステイタスで人を判断しない。

現代日本では上層部、役員と思しき人々がよく謝罪や辞任をしているが、取材を受けるとコソコソと黒い高級車に乗り込む姿をテレビに晒している。その人なりがよく分かる構図だと思う。貶されると表舞台から決まって遠ざかるのである。彼等を持ち上げているのは彼等の持つステイタスに過ぎないからでは無いだろうか。実に物悲しいものだ。


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