歩くという幸せ~人工股関節手術記

第一章 痛みの始まり

 右足の股関節に痛みを感じたのは、今から4年前の55歳の時です。介護士として施設で働いていたのですが、それはそれは重労働。体重が80キロ以上あるおばあちゃんを車椅子に乗せるだけで身体中がきしみます。介護福祉士の資格を持っていますので介助が楽になるワザは熟知しています。でも重いものは重いのです。腰痛はもちろんのこと、肩こりや頭痛も職業病のようなものでした。そこにズキンと右股関節の痛み。すぐに整形外科に行きました。

 診断は“臼蓋(きゅうがい)形成不全による股関節変形症”でした。生まれつき骨を回転させる屋根の部分が短いということでした。この病気の人は運動ができないというのが通説らしいですが、私はいつもリレーの選手に選ばれるほど運動神経が良かったのです。それを言うと医者は首をひねって不思議がっていました。まだ手術するほどでもないので、痛み止めの内服で、しばらく様子をみようということになりました。まだびっこを引くほどでもなかったので仕事も休まずに出勤しました。

 それから半年くらいは騙し騙し働いていたのですが、ついに上司から指摘されてしまいました。
「脚、痛いんですか? 引きずってるね。その状態では利用者さんを任せることができません」
 正社員ではなく派遣会社を通じて働いていましたので、ここで派遣切りに遭いました。上司の見解は正論ですから仕方ないです。

 介護を辞めて、次は本職であるライターの仕事に戻ろうと思いました。わけ合って数年フリーライターの仕事を休んでいましたので、出版社とのコネクションも無くなっていました。そこでライターを求めている派遣会社に登録をしようと思いました。

 久しぶりにスーツを着てハイヒールを履きました。会社は日本橋。長い長い地下鉄の階段を上らなくてはなりません。人の流れを妨げないように速足で階段を上って行きました。もう少しで地上に出られると思ったその時、右足の股関節にピッキーンと音を立てたような違和感がありました。次の瞬間、ズッキーーン。激痛でまったく動けなくなりました。いぶかしげな顔をしたサラリーマンたちが私を追い抜いて行きました。

 手すりを握りしめて左足一本で立ち、痛みが治まるのを待ちました。額から汗がにじみ出てきました。派遣会社の場所は把握していましたが、約束の時間まであまり余裕がありません。勇気を出して右足を付けると、また激痛がやってきました。一歩一歩、足を引きずりながら歩いてなんとか面接の時間に間に合いました。

 面接中は不思議と痛みが治まっていましたが、問題は帰り道でした。歩き出すとまた激痛がやってきます。小さな公園のベンチに座り、痛みが治まるのを待って歩き出しました。地下鉄のエレベーターを発見した時はどんなに嬉しかったことでしょう。なんとか自宅の最寄り駅に到着して、そのままかかり付けの整形外科に直行しました。

第二章 手術を決意

  レントゲン写真とCT画像を見た医者はこう言いました。
「もっとひどくても手術しない人はたくさんいるけど、そんなに痛いんじゃしょうがないねぇ。手術しましょうか。年間100人以上手術している先生がいますから、その病院に紹介状を書きますね」
 紹介された病院は両国駅近くにありました。国技館の前を通ると大勢の入り待ちの人並がありました。タクシーが止まると、一人の力士が下りてきました。おばさま達の黄色い声を背に病院に痛みをこらえながら向かいました。

 レントゲンとCT撮影をしてから診察に向かいました。医者は想像していたよりもずっと若く、少し不安になりました。医者はスケジュール表を見ると、
「今、混んでいるので少し時間が空きますが大丈夫ですか?」
 どうせ無職になって働けない身、いつでもいいと答えました。
「これが人工股関節です。この尖った部分を骨の中に刺します」
 と、さらりと怖いことを言いました。


 私が怖がっているのを察知した医者は、
「これで痛みから解放されるんですからやりましょう。早い人で2週間、遅い人で3週間で退院となります」
 と、元気づけてくれました。

 2020年、7月4日、入院が決まりました。

第三章 入院生活の始まり

 入院当日、外来で待っていると病棟の看護師さんが迎えに来てくれました。整形外科の病棟は9階にあるとのこと。エレベーターを降りたところに、テレビを見たり本を読んだりするロビーがありました。そこでしばらく待たされました。窓の外を覗くと、先ほど通ってきたばかりの緑色の屋根、両国国技館と安田庭園がありました。その左手には完成したばかりのアパホテルが鎮座しています。

 看護師さんがやってきました。いよいよ部屋に案内されます。
 個室を借りるほどゆとりはないので6人部屋を希望しました。両サイドのベッドに挟まれた真ん中だったら嫌だな……と思っていたら、運良く窓際のベッドに案内されました。
 部屋の患者たちに挨拶をすると、みんなもう手術を受けた後の人ばかりでした。自転車で転んで膝の皿が割れてしまった人、私と同様に股関節の手術をした人、部屋で転倒して大腿骨を骨折したおばあちゃんもいました。
 私が一番心配していたのは食事面です。いつも好きなものばかり食べているので、口に合わなかったらどうしようという不安がありました。
 記念すべき第一食目がこれ。思ったよりおいしかったのでホッとしました。

 夜になり窓から景色を眺めてみました。すぐ近くを隅田川が走っています。手を伸ばせば届きそうな美しい橋が見えます。隅田川には橋がたくさんかかっており、それぞれライトアップされていますが、この両国橋が一番美しいのではないかとこの時思いました。


 コロナ禍で面接は禁止。彼とも会えずに一人ぽっちの戦いが始まります。でもこの橋がそばについていてくれれば乗り越えそうな気がしてきました。これから2日間は手術に向けての検査が行われます。



第四章 人工股関節置換手術

 いよいよ手術の朝が来ました。予定の時間の9時ぴったりに看護師が迎えに来ました。手術室には歩いて行きます。薬が効いているため痛みはまったくありません。

 手術室に入ると、男性の看護師が愛想よく出迎えてくれました。
「じゃあ、ここに寝てください」
 枕の部分にパフパフと音を立てている丸い物体がありました。看護師はそれを手に取ると私の顔面に密着させました。あ、フローラルの香り。うちで使っている柔軟剤みたいにいい匂いだと思いました。
「ひとつ質問です。これから何をしますか?」
 うーん、なんと答えれば正解なのだろうか。正式な手術名はなんだろう。
「えーと、人工股関節の置換手術をします」
「そうですね。正解です」
 よかった、まだボケてはいない。ホッとしていると逆側に立っている看護師がフレンドリーに話を聞いてきます。
「これまでどんな仕事をしてきたんですか?」

 さっきの質問よりも難しい。人生放浪の旅をしてきたから、一口で答えられない。こういう時は18歳、社会人スタートの話をしよう。左腕に女性の麻酔科医が血管を探しながら問いかける。
「普通の会社に入ったんですか?」
「いいえ、劇団に入りました」
「ええっ? 何か出たんですか?」
「はい、舞台とコマーシャルに出ました」
「ほんとに? すっごーい。なんのコマーシャルに出たんですか?」
「モランボンの焼肉のタレです」
「ええーっ、ねぇ、すごいよ。テレビにも出てたんだって」

 ここで記憶は途絶えた。うまい。非常にうまい。恐怖心を紛らわせ雑談をしながら麻酔が効いていることを確かめる。なんて素晴らしいのでしょう。
 次に意識を取り戻した時にはすべてが終わっていました。
「はい、もう終わりましたよ」
 全身が青いビニールシートみたいなものにくるまれていました。よく映画で見る死体安置所の死人みたいでした。寒くて震えがきましたが、3人がかりでさすってくれてほんわかと温かくなりました。それからまた寝落ちしてしまったのです。

 次に目覚めたのは個室でした。いつの間にか私の荷物が入った棚が運ばれていました。息が苦しい……手で口元を触るとマスクの上から酸素マスクで覆われていました。棚に手を伸ばしたらスマホがあったので自撮りしました。


 目を覚ましたことに気が付いた看護師がやってきて、酸素マスクをはずしてくれました。
「気持ち悪くないですか? 吐き気はないですか?」
 気持ち悪くもないし吐き気もない。ただトイレに行きたくて仕方がない。
「トイレに行きたいんですけど」
「管がつながってますから大丈夫ですよ。ちゃんと出てますから」
 そうは言われても尿意は止まりません。介護の仕事でさんざん見てきたバルーンというものを付けられているのです。導尿されることが、こんなに不快なものだとは思いませんでした。そのうち、尿意から逃れるコツを覚えました。両足を閉じてギュッと股間に力を入れるのです。これで不快感から逃れることができました。

 ふくらはぎに何か取り付けられているのに気が付きました。少し時間を空けてはギューッと締め付けて来ます。これもデイサービスの仕事で使ったことがあります。メドマーという医療器具です。あまりに不快だったので、看護師に何のために付けているのか聞きました。


「嫌ですよね。でも、これやらないと血栓ができるかもしれないんです。血栓というのは血の塊なんですけど、それが血管を通って頭の中に入ると大変なことになるんですね。脳梗塞とかね」
 看護師の恐ろしい説明にはずして欲しいとは言えなくなってしまいました。

 外が薄暗くなってきた頃、右足全体に痛みが発生しました。子供を2人出産した経験のある私はラマーズ法の呼吸で乗り越えようとしました。しかし、一向に痛みは治まりません。押したくなかったナースコールを押して、痛み止めの座薬を入れてもらいました。夜中になっても痛みは治まらず、その度にナースコールを押して迷惑をかけてしまいました。あの美しい橋が見える部屋に戻りたい、部屋のみんなと話しがしたい……。
「いつ部屋に戻れますかね」
「痛みがあるうちは戻れませんよ。1日で戻る人もいますけど、この分じゃ明日もこの部屋になります」
とつれない返事がきた。
 わぁ、私って我慢が足りないんだ……恥ずかしい。
 そう思ってそこから先は孤独に痛みを耐えました。


第五章 リハビリ

 看護師のお見立て通り、劣等生の私は丸2日間、個室で痛みに耐えていました。ようやく車いすに乗って6人部屋に戻った時には家に戻ったような安心感がありました。部屋のみんなに、
「大丈夫? どうだった?」
と聞かれて、
「私、我慢が足りないみたいで2日間帰って来られなかったの」
と言うと、
「大丈夫よ。私もそうよ」
と優しくなだめてくれました。
 翌日からリハビリが始まりました。リハビリの場所は4階にあります。時間通りに看護助手の方が車椅子で連れて行ってくれます。


 手術から3日目、私はもう手すりに捕まって立っていました。早い人だと当日に立つそうですが、前記の通り痛みが強くてリハビリも遅れてしまったのです。
 リハビリの先生(理学療法士)は30歳くらいの美人、綾香先生でした。どういう心理なのか、私は綾香先生のことが大好きになってしまい、リハビリの時間が楽しみで仕方なかったのです。息子よりもはるかに若い、しかも女性の先生にどうにか褒めてもらいたい一心で痛みをこらえました。最初は歩行器を使って歩く練習、次に杖を使って歩く練習と、順調に回復を遂げていきました。


 術後10日間過ぎた頃には杖だけで歩けるようになりました。こっそり病室を抜け出して、一階にあるコンビニに行って、スイーツや甘いジュースを買い求めました。翌日にはトイレに杖を置いて病室に帰ってしまい看護師が杖を持って追いかけてきました。入浴も一人でできました。

 そんな順調な回復ぶりを見た医者は、入院してちょうど2週間で退院してよいという判断を下さいました。
 同じ部屋の患者たちはまだ退院できそうにありませんでした。私が退院する時間はみんなでロビーに集まって見送ってくれました。ほんの短い間の付き合いでしたが、同じ整形外科の病気を抱えるもの同士、心が通じ合っていたと感じました。

第六章 歩くという幸せ


 退院して痛みを感じたのは一カ月ほどでした。二カ月置きのリハビリは筋力測定のみでした。上向きに寝転んで、足を片方ずつ動かして筋力を測定します。半年後には綾香先生もビックリするような数値を叩き出しました。外を歩く時も杖は使用せずにゆっくり歩けるようになりました。

 もうすぐ手術後10カ月になります。手術したことを忘れるくらい人口股関節は私の身体の一部となってスムーズに動いてくれています。信号が黄色になった時にはチョコチョコとではありますが走れるようになってきました。
 かつては人工股関節の手術をした人は即、身体障碍者という扱いになったそうですが、近年、技術の飛躍的進化のおかげで、身体障碍者手帳を欲しくてももらえないそうです。障碍者手帳があればいろんなメリットを受けられますが、もらえなくて結構。手術したことを忘れるくらい痛みはまったくなく快適な日々を送っています。


股関節の痛みを我慢して働いている方、今に治るかもと放置している方、我慢しないですぐ病院に行ってください。
 手術を勧められているけど怖くて踏み出せない方、この体験記を読んでいただけたら、きっと手術は怖くないと感じていただけるでしょう。
 自分の足で歩くってなんて素晴らしいことでしょうか。これからは人工股関節を愛おしく感じながら生きて行きたいと思います。

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笠松 ゆみ
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