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限りない学びへ

目的


 文章を電子媒体に記録し、それを閲覧できるようにWEB上で公開するということは、その行為を行う人が、閲覧者の保有しない何らかの有益な情報を持っており、対価のためにそれを「話す、教える」ために行うということも多いと思う。けれど、私が今日からここで文章を書くことで始めてみたい試みはそれとは違う。

 というのも、私は知識人ではなく、特段自身の頭脳が秀でているわけでもなく、閲覧者にとって何ら有益でしかも正しい情報を有しているとすらも思えないから。

 ここで文章を書いてそれを閲覧できる形で公開しておくのは、「話す、教える」というよりも自身の「学び」のためだ。例えば、大学などではアクティブラーニングという講義を「聴く」だけでなく、「書く、話す、発表する」という行為により能動的で深い学びを生み出そうという動きがずっとある。

 その試みが正しいのであれば、「話す、教える」ということは、不完全な知識の体系を持つ者にとって、自身が「学ぶ」ことにも等しいと考えられる。「教える」者は奴隷に近いという哲学者もいるように「教える/学ぶ」という二項は相補的でないが、しかし、その境界は時に曖昧でもあるようだ。

 だから、ここでは存在するかどうかもわからない閲覧者に向けて書くことで、私自身が持つ不完全な知識の体系を完全なものに近づけるべく「学ぶ」ことを始めたい。

 と、いう感じで今後私が書くことは全て真実とは限らない、自分の投機的な思惟、取り留めのない随想録、“試み”としてのエッセイであることを最初に弁明しておきます。本当はもっと知識を蓄えてから何かを書き出そうとしたかったのだけれど、限られた時間の中でそれを待っていては何も書くことはできないだろうと思い、書きながら考えることに決めた。だから、これは何かに至るまでの、あるいはどこにも辿り着くことなく尽き果てる過程であるので、くれぐれも私を吟味することなく無批判に信じないでください

ベイトソンのように考える

 ここにこれから何か書いて学びを進めていくにあたって、一つ私が確固として心がけたいことがある。それはグレゴリー・ベイトソンのように縦横無尽に、自由に考えたいということだ。グレゴリー・ベイトソンがどういった人物であるか少し紹介しておく。ベイトソンは1904年生まれのイギリス出身、アメリカで活躍した文化人類学者だ。

 文化人類学者と差し当たっては言ったものの、彼が行った思索のフィールドは幅広く、バリ島に住む人々の社会システムの調査から、分裂病者(統合失調症の患者)とその家族のコミュニケーション、進化論にまつわる考察、学習に関する理論、サイバネティクスについてまで様々な思索を残している。これに倣い、私も分野というものを気にすることなく、思索を書き連ねていこうと思う。

 特にベイトソンについては頻繁に言及するとは思うが、私は専門家ではないからベイトソンの考察のうち、どれほどが今の学問において時代遅れになっているのかはわからない。けれども、彼の思索には驚くほど豊穣な可能性があると思っている。

 しかしながら、基本的に私がこれからベイトソンを含む思想家について言及するとき、その「思想家に対する正しさ」は二の次にすると断っておく。誰も死んでしまった思想家の思索を一つ残らずトレースできるわけではなく、究極的には「正しく」思想家を解釈はできないし、思想家自身が自身に矛盾していることはもちろん、その言説がこの世界に対して誤っている可能性もある。

 それに、知識は基本的に生者が生きるために新しく生まれるもので、そのために私は思想家の言説に眠るこの世界を説明する“パターン”を求めていて、それは既存の説明とは差異のある新しい事物に対する説明であるから、ある人の既存の“思想そのもの”ではない。だから、思想家の可能性は探るが、思想家に対する正確性は捨て置いて行こうと思う。

 と、いう姿勢の理念は半分で、実際には知識量、特に歴史に関する教養がなく、綿密に思想を追うことはやりたいと思ってもできはしないし、あまりに綿密に同じ言葉を反復してもつまらないから、自分でできる限りの可能性を引き出すように思考し、学んでいきたい。

限りない学びへ

 学びには無限の可能性がある。それは学ぶということの性質や「教える/学ぶ」という対立から考えるとよくわかる。先にも言ったようにベイトソンは「学び」に関しても興味深い考察を残している。ベイトソンはパブロフの犬のような古典的な実験室での学習現象を念頭にこう言っている。

 事実、心理学のラボでは、研究者たちの意識が注がれているのより、いささか抽象性と一般性の度合が高いレベルの現象が、ごくふつうに生起している。 被験者となる動物や人間が、実験を経ていく中でしだいに”優秀な" 被験者になっていくという現象がそれだ。ただ単にしかるべき時点でヨダレを垂らすことを習得したり、無意味な音節を丸暗記したりすることに加えて、いわば「学習することを学習する」 learn to learn ということが起こっているのである。実験者があてがう問題をそのつど解決する、という単純で個別的な学習と並行して、問題を解くということ一般に対して、被験者がしだいに熟達していくのだ。

G.ベイトソン 「社会計画と第二次学習」
『精神の生態学 改訂第二版』 新思索社 2000年 佐藤良明訳 p246


 ベイトソンはある主体は「学ぶことを学ぶ」と述べている。ここに私自身の解釈を加えたい。彼の言葉はこういうことを示唆しているのではないか。

 それは恐らく脳機能に著しい障がいが発生しているなどのケースを除いて、人間やある種の動物には「学ばない」ということが不可能なのではないかということだ。

 例えば不登校児や「不良」の学生は「学ばない」と言われる。しかし、確かに彼らは学んでいる。「学校は怖い」とか「学校は退屈で嫌なところだ」とかいうこと、あるいはエスケープした先の人間関係や独自のしきたりを。それが社会にとって価値を認められないから、強制されるものを学ばないから「学ばない」と呼ばれるだけで。

 あるいは、学校で勉強をする子どもたちは、学科の内容と同時に、恐らく寧ろその内容以上に“教室の中で椅子に座っている“という習慣を自己強化的に学びつづけるだろう。

 ベイトソンはここで「学び」は「教え手」によって制御できるものではなく、それどころか「学び手」自身の「意識」によってさえ制御できない側面を有しているということを指摘していると考えられる。
 少し考えればそれは当たり前のことだ。「学び」が完全に意識によって制御できるものであれば、学校における勉強には何らの困難もなければ、私たちが依存症に苦しむことも一切ないだろう。だから、通常の意味での「学び」というのは、それを制御しようとする行為を指し示しているのだろうと思う。
 加えて、私が以下に述べることが正しければ特に強制された「学び」は「学び」の持つ最も広大な可能性を閉じるものだ。

 「教える/学ぶ」という対立から考えれば、より「学び」の無秩序さが際立つと思う。もちろん例外は多々あるだろうが、「教える」ということは基本的には「教え手」の持つ知識や規則の体系を他者のうちに反復させるということになるだろう。そうであれば、「教え手」は自らが「良き教え手」たらんとすれば、間違えた規則を反復させることはないであろうから、そこに多様性や差異、新しさは生まれない。

 しかし、「学び」は違う。基本的に「学び手」は学びの対象について自らの中に確立した知識や規則の体系を持たないだろう。あるいは学びの対象が何なのかすらわからない場合や、単一の対象に特定されない状況が考えられる。だから、何度も問いに対する回答を間違えて、差異ある解が生まれ、そして、それが人であれ、教材であれ、あるいは自分の直面するその時その時の状況であれ、様々な「教え手」と対峙することで、多様な知識と規則の体系、特異な状況から学ぶ可能性を持つ(可能性がある、とまでは言える、それが実現するとは限らないから。)。

 ある哲学者の言葉を借りていえば「学ぶ」ということは、多様な「教え」の「交通」の中に身をおくことである、と表現できそうだ。だから、「教える/学ぶ」はそもそも対立軸として不整合かもしれない。相補的なのは「教える/教わる」であって、教わることと学ぶことは一致する場合とそうでない場合がある。

 「学び」は賞賛されがちだが、それは危ういことでもある。「学び」は誤りの可能性を常に秘めている(私の書く文章も交通事故を引き起こす酔っぱらった危険運転そのものかもしれない。)。しかし、「学び手」の「学び」に私たちが何を言えるのかというと難しい問題があるだろう。人は可能な限り「良き教え手」として自身の知識と規則の体系とその限界を正確に託し、「学び手」の創造性を破壊しないように、その責任と自立性に任せる。「学び手」が自らを超えていく、その差異を認めるほかないのだろう。

 ところで、ベイトソンは上記のエッセイで「学ぶことを学ぶこと」を二次学習deutero learningと呼び、さらには別の場所では「学習Ⅱ」と呼んだり、それをさらに超える学習段階として「学習Ⅲ」、「学習Ⅳ」とレベリングを行なっている。習慣など「学ぶことを学ぶこと」よりも高い次元で「学ぶことを学ぶことを学ぶ」という学習が発生することがあるというわけだ。

 では、今ここで私が学ぶことについて学ぼうとして書いているこの文章は一体どのレベルにあるのだろうか?ただここで考えながら文章をタイピングしているだけだからシンプルに「学ぶこと」だろうか?あるいは「学び」が題材の「学びについての学び」だから「学ぶことを学ぶこと」か?
 いや、そう気付いたときそれは「学びについての学びについての学び」となり、さらにそれを思考した瞬間それは「学びについての学びについての学びについての学び」になって、それは即座に「学びについての学びについての………おや、測らずしも文頭に述べたような無限の学びの可能性が実現してしまったのだろうか?

 残念ながら、これはベイトソンの言う意味での学習の階梯を駆け上がっているわけではない。ベイトソンの思考には論理学の概念を自然や現実における振る舞いの中に見出すことに一つの特徴があり、学習のレベリングは論理階梯理論、ロジカルタイピングがベースにある。
 今私が述べた「学ぶことを学ぶこと」の連鎖は振る舞いのレベルで言えばただ文字をタイプしているだけで一定であり、知的作業のレベルから言ってもただ一つ「自己言及を繰り返して論理上の階梯を上げていく」という一つの法則に従っているに過ぎない。恐らくこれはベイトソンの学習理論で言えば、学習Ⅰにとどまるだろう。
 なのでこれは学びの無限の可能性とは程遠いジョークに過ぎないし、ベイトソンの学びは振る舞いの変化のレベルにあるから、ただ一つの学習で階梯を駆けあがることはできない。より高次な学習は振る舞いの変化に現れる。

 さらに無限の学びなどと言っているが、そもそもベイトソンの言う学習Ⅳなどは地球上の生物の成体の有機物には不可能な進化論レベルの話である。しかし、ベイトソンに従うだけではつまらない。

 ただ、少なくとも、学びに王道はない、ということは言える、いや、それすらも学び続けなければわからないので、今の私には知るよしもない。

 と、いうこんな感じで、最初の文章を締めくくろうと思う。この試みがいつまで続けられるか、すぐに終わるかはわからない。とりあえずネタと体力と精神力が続く限りこのエッセイを書いていければと思う。限りない学びに向けて。

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