フォーカシングの原点と臨床的展開 第三部五章Ⅱの臨床的展開の要約

5-1-1 フェルトセンスの声を聴き取るジェンドリンの論文の題目に「クライエントのクライエント」という表現がすこし謎めいたものがあるが、それはフェルトセンス(体で感じられている意味感覚)のことを指している。フォーカシングの考え方に基づいて言えば、クライエントの中にクライエントがいて、その声を聴き取り、それに内在する方向性に沿って動いていけるようになることが、心理療法の展開ということができる。 このように考えると、クライエントの中でフェルトセンスを感じる人格、そのフェルトセンスを聴き取るリスナーの人格の二つの部分人格があり、お互いに他方を成長させる力を持っている。しかし、クライエント全員が最初からフェルトセンスを聴き取れるわけではないので、セラピストがフェルトセンスとリスナーの間に入って通訳のような役割を果たし、クライエントのリスナーを育てることによって自分でより深いフェルトセンスを聴き取れるようになることが望ましい。5-1-2 セラピストがフェルトセンスになじむこと フォーカシングでは、自分の内側に起こっていることを「からだの感じとしてとらえることが重視される。フェルトセンスと呼ばれるものであるが、私たちセラピストは、自分自身のフォーカシング技法の経験を通じてそれに馴染んでいく必要がある。意味感覚であるため、内包されている多様な意味が次第に分化して現れる。そのため、セラピストがフェルトセンスになじみ、それを臨床に役立てられるようになることが、フォーカシングに基づいた心理療法の基本となる。暗々裡の体験をそのままの形で自分の内部に留め、それを保持し、それが明示的になっていくのを待つ態度である。
5-1-3 フェルトセンスと間主観性
 フェルトセンスは心理療法における間主観性的な相互作用をとらえるチャンネルとして機能する。クライエントとセラピストは、互いに別個の存在を前提して言語コミュニケーションをとっているが、体感では両者の個別性を前提にしたとらえ方は極めて怪しいものである。クライエントが言葉にできないフェルトセンスが無自覚のうちにセラピストにも似たようなフェルトセンスが移ってしまう。それをセラピストが間主観的にとらえることで、クライエントへ接近することができる。臨床家にはその修練が必要となるだろうし、フォーカシング技法を通じてフェルトセンスになじむことは、その一助になるように思われる。
5-1-4 言葉を提供し共有すること
 ジェンドリンは、セラピストの行う言語的応答の原則として、「感じられた意味」(フェルトセンス)に応答して答えること、新しい色々な面がそこから具体的に現れるように「感じられた意味」を解明しようとすること、そのためにセラピストは試行錯誤的に様々な方向を試みること、クライエントの体験的軌道についていこうとすることなどを論じ、そのような言語的応答を「体験的応答」と呼んでいる。用いる用語は違っているかもしれないが、クライエントが言葉以前の感覚として感じていることを適合した言葉に言い表し、両者に共有できる明示的な意味にしていく作業である。
 しかし、クライエントがフェルトセンスを形成できていることは稀であるため、上記のような言語的応答によるクライエントのフェルトメンスの明示化による共有の促進ではないと思える。
 パートンは、その不明瞭さについて自らの内側の、この暗黙のものに注意を向けることによってフェルトセンスが作り出されるのであると論じ、井筒俊彦は、「コトバの意味作用とは、全然分節のない『黒々として薄気味悪い塊り』でしかない『存在』にいろいろ符牒をつけて物事を作り出し、それらを個々別々のものとして指示するということ」と述べている。
 フェルトセンスが形成されるまでは、何がわからないかもわからない状態であるためクライエントとの明示化もできない。そのため、セラピストはクライエントが、何がわからないかを注意しつつ様々な符牒をつけてフェルトセンスを形成しつつ、リスナーもそだてるという作業になる。そのことによって、フェルトセンスとリスナーという二つの部分人格が同時並行に形成されていく。そうなるにつれて、クライエントは自らの力で自分のフェルトセンスに触れてそれを言葉に表す能力を獲得していく。


感想
 今回、授業でもよく出てきたフォーカシングについてのブックレポートを行いましたが、なぜフォーカシングを題材にしたかというと、授業の内容だけではフォーカシングのさわりだけのような気がして全容がつかめなかったからです。
 要約は5章だけですが、本は一通り目を通しましたが、この本の良かったと感じたことは、題材が違ったとしても各著者のフォーカシングに対する姿勢や考え方が詳しく書いてあったため、自分が疑問に思ったことも別の作者がふれていたりしたためとても参考になりました。
 ただ、不思議とフォーカシングはそこまで難しいとは感じませんでした。自分がソクラテスの影響を受けて、ソクラテス的産婆術を行う節があるためかと思いましたが、そのせいか納得できるものでした。