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私小説 わたしの体験 5

 繰り返すが、これは小説だ。現実の話ではない。私小説、私事を書いてはいても、現実そのものではない。現実をデフォルメしたり、象徴的に描いたりしている。
 強度行動障害という特異な症状を見せる障害者がいる。自閉スペクトラム症のある障害者の一部にみられる症状、あるいは状態だ。それ自体が障害名ではない。どのようなものかといえば、通常では考えられない頻度で、自傷、他害、物損、異食などを繰り返す状態の障害者だ。そういった障害者の支援は困難を極める。
 例えば、独立行政法人、つまり国立の障害者支援施設などでは、強度行動障害に特化した支援を行ない、成果を上げているところもある。しかし、そういったところは、地域にある普通の障害者施設とは、まったく異なる手厚い支援体制を持っている。利用者ひとりあたりに対する職員配置も、一般的な障害者施設をはるかに上回っている。
 そんなところと一般的な障害者施設が同じであるはずがない。だから、強度行動障害のある障害者は、入所を拒否されることが多い。
 だが、わたしのいた施設のように、理事長が福祉の理想に燃えて、支援が難しい強度行動障害の障害者を積極的に受け入れようというところも中にはある。理事長やその周辺の、実際に現場に出ない者たちにとって、それはたいそう心地の良い、自己陶酔感に浸れる行為だろう。自分たちは、困っている人たちに救いの手を差し伸べている。
「誰も救いの手を差し伸べないのならばわたしたちがそれをします」
 そう言い切ってしまえば、なるほど、自己犠牲も厭わない自分たちの姿は、自尊心が肥大した者には、この上もなく優美だろう。自己満足、自画自賛の極北だ。
 しかし、現場で直接、強度行動障害の障害者と対峙する職員にとっては、困難に雄々しく立ち向かう自分たちの姿に、酔っていられるような余裕はない。
 たとえば他害の激しい障害者の場合、その攻撃対象となるのは、第一に職員、第二に利用者だ。利用者に攻撃が向けられるとき、職員はその利用者を守らなければならない。守るといっても、正当防衛的な対応すらできず、ただ激しい暴力にさらされるだけということになる。反撃すれば、それは虐待ということになるからだ。
 強度行動障害の支援を難しくしている要素のひとつは、医療機関の支援を受けられない場合が多いということもある。対応に困り、医療機関を受診しても、
「障害は病気ではありませんから入院はできません。環境調整で対応してください。医療機関としてできることは何もありません」
 と、冷たくあしらわれるか、あるいは、
「自分たちで支援もできないような相手と、なぜ契約をしたんですか」
 実際にわたしが言われた言葉だ。
 正確にはわたしではなく、その日、暴れる利用者を一緒に病院に連れて行った当時の副所長が、医師から言われた言葉だった。所長は、その日酒を飲んでいて車の運転ができるような状態ではなかった。すでに夜中だった。夜勤をしていたわたしが連絡をして、副所長がきてくれたのだ。
 病院で同じことを何度言われただろう。興奮状態にある利用者に殴られたり噛みつかれそうになったりしながら、真夜中に輪番の病院に行く。そして、断られる。何度目か忘れたが、同じ言葉を何度も訊かされ続け、ある日突然、もう辞めようと思った。そして、わたしは辞めた。ばからしくてやっていられなくなった。医療機関も味方にはなってくれない。
 保護者もそうだ。保護者の多くは、行動障害が理由で病院に行くことを嫌がる傾向にある。薬を使うことも嫌がる。環境調整で対応できるはずだと、どこかで仕入れた知識を振りかざし、だからこの施設はまともな支援をしていないと非難する人もいる。保護者から批判を受けた管理職は、支援の見直しと称して、非現実的な支援方法を職員に押しつけてくる。
 保護者からすれば、悪いのは施設だということになる。施設からすれば、保護者から信頼されないのは、一般職員がだめだからということになる。一般職員からすれば、自分たちの身の丈をはるかに超えた、支援困難な障害者を入所させる上層部の考え方に問題があるということになる。医療機関はそもそも障害者を拒絶する。そんな閉塞状況の中で虐待は起きている。
 虐待は誰かを悪者にして、それですむ話ではない。

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