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私小説 わたしの体験 3

 わたしについて、わたしは語りたい。そんなもの誰かが読むか。そもそもお前に語るべき自己などあるのか。そう言われてしまえば、なんともしようがないのだが、お金を取って読んでいただいているわけではないので、そういうことがあってもいいということで話を進める。
 わたしについて語るとき、生のままのわたしをさらけ出すことが、わたしにとっては難しいということだ。だが、小説の形で書けば――繰り返すが、うまい下手はさておいて――なんとなく書くことができる。
 自分について語ること、といっても語るべき自己が本当にあるのかどうか。これについて知ってしまうことは、実はかなりおっかない。
 ジェイムス・エルロイという破壊的な作家がアメリカにいて、「わが母なる暗黒」の中で、自分に小説が書けるのかどうか、という小説を書こうとうする者にとっての永遠のテーマを、石板という言葉で表現していた。わたしは果たしてその石板を持っているだろうか。持っていなかったらどうしよう。
 閑話休題。
 ジュースを要求されて、殴ってしまった職員は、結局解雇になった。確かに殴ったことは悪い。ずいぶん常識から外れたわたしでもそのくらいのことはわかる。
 しかし、問題は殴るまでに追い詰められた職員が最も重い責任を背負わされたということだった。もちろん、所長も副所長もある程度の責任は取らされた。だがその責任は軽く、最も重い責任は、虐待をするまでに追い詰められた職員に与えられた。こういうのをトカゲの尻尾切り、とたぶんいうのだろう。
 糖尿病の利用者に、甘いものを与えない――は、よしとする。しかし、具体的にどうすればいいのか。ただ飲ませてはいけないということを言うだけで、具体的な支援をどうするのか誰も教えなかった。そういう支援をしろと命じた所長とその周辺も答えなど持っていなかった。ただ福祉とはかくあるべきという建前を振りかざして、職員を追い詰めたのである。
 そして問題が起きれば、問題を起こした職員に責任の大部分を負わせる。
 そんなことが際限もなく繰り返されてきたのがこの業界だった。そして、そのたびに再発防止の取り組みが行われるのだった。その再発防止の取り組みも、せいぜい一年もてばいい方で、やっているうちに力尽きて、それは形骸化し、たんなるアリバイ作りになっていく。自分たちはここまでやりました、だから許してくださいというアリバイである。
 福祉の世界にあるのは強固な階層構造だった。トップがいてその下がいて、さらにその下がいる。もっとも下にいるのが利用者だった。そのうえに一般職員がいる。圧力は上から降りてきて、最後にもっとも弱いところ、利用者のところに行きつく。
 つまりそういうことだ。

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