忘れかけていた大切なこと〜「永遠」と呼ばれた街で〜
ほっけの干物です。よろしくお願いします(・))<<。
ヘッダーは、後に紹介する動画にも起用しております、夜明ほしこさん書き下ろしのイラストのうちの一つです。青地のモスクに赤い民族衣装のコントラストがとってもきれいで、絵の世界に引き込まれそうです。
紹介
2020年1月22日に、『「永遠」と呼ばれた街で』という曲をマジカルミライ楽曲コンテストの応募曲として、最初はピアプロのみに投稿しました。
コンテストの常として、主催者以外の外部サイトに公開しないというルールがあり、例年より遅い5月末に結果が分かったので、5月から6月にかけてYoutubeとニコニコ動画に投稿いたしました。
きっかけ
この曲の歌詞を作ったきっかけのひとつとして、少し前ですが、2019年3月末にあったある大きな事件について紹介します。
それは、ジオシティーズの閉鎖。
ジオシティーズ上に載っていた、個人のウェブサイト、ページ主の真情を吐露したものから、地道に調査した貴重な情報資源と呼べるものまで、サービスの終了とともに、消えて無くなっていく。ページ主がよそのサービスなり、自らサーバを立てるなりで避難できたなら救いはありますが、ページ主が更新をやめてしまい避難させる気がなかった、その気があっても色んな事情で避難できなかった、そもそも気づかなかった、残念ながら亡くなられていたとなった場合、ジオシティーズとともに砂丘に埋もれるかのように、そのページが無くなってしまう。
でもそれは何もジオシティーズが初めてじゃない。魔法のiらんどが展開した小説投稿以外のあらゆるサービスも、@niftyの@homepageも、そしてGoogle+…etc...
永遠と終焉
「ネットにさえ一度乗っかれば、何にしろ半永久的にインターネット上に残り続ける。」
こんな意味合いの幻想を僕も見ていました。でも実際は違ったんだ。
一例を紹介します。僕はTM NETWORKが好きで、一時期は30周年のコンサートに何回も遠征するくらいですが、そのファンサイトの一つに「まいるどHEAVEN」というコアなネタが収集されているサイトが有りました。しかしサーバー元(@nifty)がサービスをやめてしまって、もう見ることができません。今Googleとかで検索したって、ハレンチなものばっかり出てげんなりします。
そこに何が書いてあったかは僕も正確には把握できず、文字通りタイムマシーンにでも乗って遡りたいほどです。
サーバー主が私営企業である以上、採算がとれないとなれば閉ざしてしまうのはやむを得ないところがあります。破産なんてされたら、それこそ終了ですから。仕方ない…
ジオシティーズなどだけじゃない。ソシャゲだったり、私設のファンサイトだったりロックバンドもそう。
サービスや活動終了(バンドとかだったら解散もそうだろう)によって、ファンが残した記録、記憶、思い出にしか頼れない儚い存在になる現実、風化されるかもしれない不安。
残ってほしいものがみな残るとは限らない。
(逆に消してほしいものがいつまでも残り続け得るのも確か。いずれ消えることを謳ったサービス、インスタのストーリーズなどは、そうしたニーズがあってのものだろうし。)
まして、ネットが発達する前の作品ではなおさらで、いつの間にか人々から忘れられた漫画だったり楽曲だったりキャラクターが実はたくさんあって・・・
これらはみんな人の手によって、人の頭脳によって生まれたものだから、
それらはそれ自身ではひとりでに活動できない(技術的にはできるかもしれんけど、自我を持って勝手にほかのキャラクターと話したりとかされたら、それこそターミネーターのスカイネット案件だし。)。
要は人なしでは動けないし、生きていけない、無意識なのも含めて自分自身で行動できない。
有名なものほど、生き残っていきやすいけれども、そうでもないものは残念ながら生き残ることの難度が上がる。
タイミング、作り手の意識、作り手そのものの変化、消費者含めた周辺環境、経済事由など多種多様な要因でそのコンテンツ、サービスが繁栄したり、逆に衰退して、終了したりする。繁栄すればそれは今は良くて、衰退すれば最悪忘れ去られてしまう。それはそのキャラクターなりサービスなりの、本当の最期かもしれない。
この歌で伝えたいこと、気持ち
私がつくった、『「永遠」と呼ばれた街で』。歌詞について細かく自分自身が言及するのはしたいとは思いつつも、野暮と思ってるし、聞いた人の思考を固定させてしまうから多くを語らないようにしている。けれど言うならば、この歌は、せっかく生まれた、せっかく活動しだしたキャラクターをせっかく好きになったのだから、僕ら受け手がそのキャラクターと共に生きたい、これからも大切にしていきたい、無理ない範囲で支えていきたい、守っていきたいという私なりの気持ちを投影した歌なんです。
僕は、MEIKOのおかげでボカロの世界に入ることができました。ミクを始めとしたボカロブームが起こってからボカロの世界に入るまでに、10年もかかりました。
馴れ初めを語ると、それだけで記事ができますので今回割愛しますが、今だって、いや、ボカロPとして始めた当時よりずっと好きになった。そんな感じがします(今さらっと書いたけれども、結構照れくさいです)。
忘れかけていたこと
でも、MEIKOって少なくともクリプトン社的には最もマイナーで、そりゃボカロ全体で見たら、さすがに出たばかりのほやほやの子も含めたら十分有名な部類ではあるし、音声合成史の教科書に載せるべきマイルストーンではあるけれど、あまねく大衆に人気ではなくて、あくまでカルトな人気が有るという印象。
今年2020年になって出だした、#MK15th_projectという、MEIKOとKAITOの等身大フィギュアをクラウドファンディングで造るという歪みない企画でも、当初一部で抱き合わせで祝ってそれで済ますんじゃないかという声が聞こえましたし、正直私も当初、こんな懐疑的なことを言っておりました。
今見ても、どこか懐疑的で、どこか飢餓感のつよいスタンスのツイートをしました。
MEIKOスキーとしての僕は「これで打ち止めか」、KAITO曲作ってる者としての僕は「最初から一緒ってどうよ」とすら思っていました。
けれど今思えば、あの曲を作った人間が言うセリフじゃない、相互で支え合う気持ちをどこかどこかで忘れかけていたんです、しばらくの間。
そうじゃない
そんなときに、見かけたのがこの記事。
記事にもあるけど、冷静になって考えたら、普通、収入にしろ利益にしろ、より大きなものを取るし、それを重んじるのが営利企業の本能なんだし、それをすることで少しでも長く活動できるなら決して悪いことじゃない。
僕は向こうの真意を完全に正確に捉えられた訳ではないかもしれんけど、なのになのに写真の構成なり、企画の中身なり本当に、よくやってくれるよね。もっとこのことをありがたいことと捉えなければならない。そう思うようになった。
それに、先のhiyoriさんの記事の中で読んでてドキリとした所があったんです。「最後に」とつけられた段落から一部引用します(勝手に引用してすみません)。
推しはいつ無くなるかわからないものです。
何度もいいますが、クリプトンさんは特殊で、ベンチャーで。
だからこそ他の営利企業と違って、長期目線でファンに向き合おうとしてくれています。
あり得ないですが中国企業がクリプトンを買収したり、内部が採算目的で会社を運営するようになったり、ファンが何をしても喜んでくれないからもういいやと思われたら、それだけで終わります。
だからこそ、私は今ある推しを楽しみたいですし、感謝も伝えていきたい。
毛色は違うけれども、僕がこの曲の歌詞を書いたときの気持ちと一緒だったから、結構驚いた。と、同時にそれが忘れかけていた曲に込めた気持ちでもあった。
他人に言われて気づかされるから情けないよなと思いつつ、作った曲をもう一回聞いてみた。
いままで君が、あふれるほど
潤いをくれたおかげだよ
心躍るこの 瞬間
ぜんぶ 君への
「ありがとう」
MEIKOがファンに向けて言う台詞を想定して、当時の自分が考えた歌詞だけど、本当に語りかけてくる感じがして、不思議なもんだね。ぎゅっと抱きしめて、こっちこそありがとうなんて言いたくなる気持ちにさせるんだから…少なくとも、僕はね。
まぁ結局、クラウドファンディングのは、そのあと8万もつぎ込んだんですけどね(無理はしてはだめです。ただ、名前刻んでもらいたかったのと、お猪口がほしかったんや!)
とはいえ、石油王じゃあるまいにいくらでも資本を掛けられるわけじゃない。僕が、いまできることはなにかっていったら、なんだかんだ言ってMEIKOの歌う歌を作ることだと思ってる。リアルでは曲作れるなんてすご~い、なんて言われるから、皆が皆できるわけじゃないんだろうなとは感じてる。だからこそ、そこは大事に育てておきたい、盛り上げていきたい、絵心がない分、余計に。
終わりに
僕は、「『永遠』と呼ばれた街で」を作るとき、好きになったキャラクターと共に生きたい、これからも大切にしていきたい、無理ない範囲で支えていきたいという気持ちを込めて作りました。ただ、僕は不完全だから、ちょっとしたことですぐにぶれてしまう。でも、それは手放してはいけないこと、守り通していかなければいけないことなんだと、自分が作ったこの曲を通してでも気づかされたわけ。
この曲は作った当時の気持ちの吐露だけじゃない、音楽人生における中間地点だけでもない、いつしか活動指針そのものになっていくのかなとふと思ったのでした。
※この記事は当初2月の終わり頃に書いたものを、公開せず、それから4か月経って再度修正したものです。ところどころ文章がちぐはぐかもしれませんが、ここに込めた気持ちはずっと一緒です。