見出し画像

刈谷メソッド_27「責任の量」

 間に組織での自己の律し方を挟みましたが、話を戻して「責任を取る」ということについて語りたいと思います。
 このあたり、昨今特に難しい話題ですね。と言いますのも、昔は責任なんて取って当たり前だったわけです。ただやはり行き過ぎもあって、例えば上司が部下に罪を擦り付け、部下が責任を負わされて退職させられたりとか、もっとひどいことになったりといったパワハラの存在が取りざたされるようになり、いまは会社や上司もスタッフにあまり厳しいことが言えない風潮にあります。鬱などの問題もありますしね。

 それこそ愚痴になりますが、いま49歳のわたしなどは、20代のころは上の立場の人に無茶苦茶な扱いを受け、いまは下の立場の人に気を遣わねばならず、「オレの心の平穏はどこにあるのだ」と思ったりもしますが、まあ、そういった話はたぶん「今の若い者は」現象と一緒で、誰もが思うものなのでしょう。

 ともあれ、そうした責任論を語りにくい昨今ですが、それでもなお、当然ながら責任を取ろうとする姿勢は重要です。
 逆に言うと、周囲が責任を言ってこないぶん、責任に対してより自覚的になる必要があると思います。

 ただそこで難しいのがやはり鬱ですね。責任を背負い込み過ぎてしまう方。真面目で誠実な方ほど、自己の責任にも真摯に向き合い、自分で逃げ道をふさいで自分を追い詰めてしまう。
 だから「食う浴びる寝る」といったストレス発散の習慣付け、「こうすればオレの脳内ストレスはリセットされる」という暗示システムを複数持っておくことが重要だというのがメソッド24「食う浴びる寝る」でした。

 責任を背負い込み過ぎてはダメだし、責任感がないようでもダメ。そのうえで個人が耐えられるメンタルのキャパシティは人それぞれ。
 そうなると個別に対応する以外になく、一般論なんてものは成立しえないんじゃないのという話ですが、無理やり言語化してみます。
 実のところこのテーマ、ここを書いている現在結論が決まっていませんので、ほとんどわたしの思索ノート状態です。申し訳ありません。なにかいい結論が導き出されるといいのですが。

 簡単に言ってしまえば、結局「折り合いをつける」ということになるのだと思います。そしてその折り合いは、自分にしか分かりません。いや、鬱のスパイラルに入っていると、自分の方が周囲以上に自分の状態を分からなくなっている可能性もありますが、それでも「これ以上進むとヤバいな」というのは、自分が分かるはずと言いますか、逆に自分でそこを常に注意しておく必要があると思います。

 キツイ言い方をすれば、メンタルの健康を保つのも責任の一種です。冬に水を浴びて外で騒いでいたら風邪をひくのが当然なように、自分のメンタルが病気にならないような行動を取るべきです。会社でストレスがあるなら、もっともシンプルで効果的なのは、会社を辞めることですよね。
 それは極端すぎるとしても、慢性的に冬に水を浴びているような状況が続いているなら、それを改善してほしいと主張すべきですし、その権利もあるはずです。
 それを主張してしまうと、自分の評価が下がってしまうという状況もあるでしょう。難しいのは、こうした事例はケースバイケースであり、相手の主張が一般的にはそこそこ正しい状況もあることです。ですが当事者は自分なわけですから、「自分が耐えられるかどうか」は、一般的にどうかは関係ありません。

 ですので一般論とかは過度に気にし過ぎず、自分の中で無理だと思うラインが近付いてきたら、ラインを超える前に自分を守るための行動を取るべきです。そのラインを超えるか超えないかギリギリのあたりまで来ていると、割と手遅れだったりしますので、ラインが近付いてきたらいろいろなケースを考えて対策を取っておくべきです。

 それを前提として。

 それでもやはり責任は取らなくてはなりません。上記を前提とするので、「折り合いを付けながら」責任を取るということになります。
 なぜ責任を取るべきかと言われれば……いろいろありますが、まずはやはり「責任を取る範囲や量と、出世が比例する」からでしょう。

 ですので特に出世に興味がない方、窓際で定年まで過ごせればいいという方(きょう日そんな社員を雇う余裕のある企業はほぼありませんが)は別に過大な責任を取る必要はありません。
 自分の給料の範囲の責任を、上司に怒られない程度にこなしていれば、「あいつは意欲がない」と陰口をたたかれることはあっても、クビにされることはないでしょう。

 ですが自分の腕を試したい、自分の理想を実現したいと思えば、やはり求めて責任を取りに行く必要があります。
 個人事業主とかは、その最たるものの例のひとつでしょう。すべてが自分の思い通りになる代わりに、すべては自分の責任です。

「折り合いを付ける」というのは、そういう責任の量との折り合いと言えるかもしれませんね。「ここから先もさらに責任を背負いに行くのか。それとも……?」という。
 人間いろいろ余裕がないと、視野も狭くなります。その瞬間はその責任を取る以外の選択肢がないように感じますが、ふと客観視して状況を見つめれば、案外選択肢は多いなということに気付くはずです。


 ……気付くと「そんな頑張って仕事しなくてもいい」みたいな話になってるけど、大丈夫かな(笑)。

 でもまあ、やっぱ大事なのは自分だから、まずは自分が壊れないようにしようぜと。
 それでまあ、周囲に迷惑をかけないようにというのもやっぱ重要なので、「これ以上はマズいな」というときは、迷わず周囲に頼ろうぜと。
「周囲に迷惑をかけないように」と言っても、まあ迷惑はかけちゃうんで(笑)。重要なのは、「すごく迷惑をかける」前になるべく早く相談することかなと。

 そうしていろいろジタバタもがき苦しんでいると、自分が対応できる範囲も見えてくるんですよね。
 そういう意味では、最初から自分に負荷をかけ過ぎない方がいいのかもしれません。

 あ、なんかいい場所にたどり着いた気がする(笑)。

 自分に期待しすぎると、負荷も大きくなりますよね。
 でも二十歳そこそこで社会に出て、最初からバリバリやれる人というのは少ないわけです。学生時代から起業してバリバリ稼いでる人とかがニュースに取り上げられたりしますが、そうした人と自分を比較しても仕方がありません。
 自分には、自分の背負える責任の量があるわけです。

「こういう自分になりたい」と思って気負って責任を背負いすぎると、知らず知らず潰れてしまうかもしれない。
 とはいえ「責任なんて取りたくないっす~」という態度で生きていると、人間的成長も会社での出世もない。

 なので「いま自分が背負える責任の量」を見つめながら、「もっと責任が背負える人間になりたい」「もっとより良い自分になりたい」と、もがき苦しむのがいいのではないでしょうか。

「若いうちは失敗した方がいい」というのも、この「自分が背負える責任の量」に気付けるということがある気がします。歳を取ってから背負う責任は、シャレにならない重さがあったりしますので(笑)。
 若いうちにいろいろ失敗して、責任をまっとうできなかった場合の苦さ、辛さ、悔しさを乗り越えて、本当の意味で責任の重さを知ることができるのではないでしょうか。

 ですので若い人も、鬱になるほど考え込む前に、「いま背負ってる責任は、今の自分のキャパには大きすぎるのかもな」と振り返ることのできる余裕を持っておくとよいのではないでしょうか。
「これが処理できないと、オレは役立たずだ」と思い詰めるのではなく、「これを処理するには、いまのオレは力不足だ。人を頼ろう」と判断し、行動する勇気を持つことが大事な気がします。

 そうしていろいろな責任を目の当たりにし、はね返されたり乗り越えたりしながら、自分を高めていけば良いと思います。


 ……当初からこうしたことを語るつもりだったのかは、はなはだ怪しいですが、ともあれ結論めいた話にたどり着いたので安心しました(笑)。

「責任を取るのは大事」
「しかし責任を背負える量は、個人によっても、そのキャリアによってもまちまち」
「焦って自分を追い込むことなく、冷静にいま背負える責任の量を見つめ、克己心を持って自分を高めていきましょう(そしていつかデカい仕事をやっちゃいましょう!)」

 そんな話でした。なので最後にタイトルを「責任を取る」から「責任の量」に変えました(笑)。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?