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1月1日に被災者になった話 1

令和6年1月1日、私は夫の実家がある石川県珠洲市にいた。
楽しく過ごすはずの元日、あっという間に私たちは被災者となった。
我が家は幸いにも家族全員無事だったし、今はもう被害のない地域にある自宅に帰って過ごしている。
でも、夫の実家は半壊、義両親や祖父母は避難生活を送っている。
先の見通しはまだまだ立たない。
私の気持ちも、まだずっと、ざわざわしたまんま。

今の私にできることは少ない。とりあえず、地震の日の体験と今の気持ち少しずつここに綴ることにしたい。

1月1日

夫の実家では、16時から宴会の予定だった。
市内の各地から集まってくる親戚たちは、少々遅れているようだった。
私は、みんなが来る前に、とリビングで0歳の二女のオムツを替えていた。
16時過ぎ、1回目の地震があった。強い揺れ。私はおしり丸出しの二女を抱き抱えたが、揺れはすぐに収まった。

キッチンから夫と長女がやってきて、「揺れたね。」「びっくりしたね。」などと話しながら、私はまた軽く揺れるかもしれないな、と思い、急いで二女にオムツを履かせ、部屋の中央に移動した。

するとまもなく、1回目よりも明らかに強い揺れが来た。轟音と共に、今までに経験したことのない揺れ。しかもなかなか止まらない。それどころか、次第に強くなっていく。
「あ、これはやばいな。」そう思うのに時間は掛からなかった。
バチン と音を立てて停電し、ガタガタと襖や家具が倒れ始める。

3歳の長女は、「お家壊れちゃう!お家壊れちゃう!」と泣き叫び、夫にしがみついていた。夫が、「大丈夫、大丈夫。」と言うのが聞こえて、私も長女に、というより半ば自分に言い聞かせるように、「大丈夫、大丈夫。」と大声で唱えた。それでもなかなか止まらない揺れ。

本当に家が倒壊するかもしれない。もうダメかもしれない。
そう思い、目の前にあった低い座卓に娘たちを放り込もうと考えたその時、ようやく揺れが収まった。

すぐに津波警報がなった。波の音が聞こえるほど、海はすぐそこにある。
私と夫は、上着を羽織って靴を履き、子どもたちを抱えて外に出て、車で裏山まで逃げた。

裏山にはぞくぞくと近所の人が集まってきた。
夫は、まだ家に残っている家族を迎えに、走って向かった。
余震が続く。

二女を抱き、「◯◯ちゃん(自分)のおうちに帰りたい。」と泣き喚く長女を宥めながら夫を待つ時間は、無限に感じた。
ほどなくして、夫が家族を連れて戻ってきた。

津波警報が解除されたら避難所に行けるだろう。
そう思っていたのに、一向に津波警報は解除されない。
明るかった空はあっという間に暗くなった。携帯の電波も途絶えた。

近所の人たちが、近くに立っていた小屋を壊して木材を集め、焚き火をしてくれた。みんなで火を囲み、少しだけ、恐怖が和らいだ。

空を見上げると、満点の星空。こんな状況でも綺麗すぎる能登の星空が、なんだか無情に思えた。

明るくなれば周りの状況も少し分かるかも。
とにかく早く朝が来てほしい。

それなのに、見るたびに全く進まない時計。
間違いなく、人生で一番長い夜。

その日、私は、というかきっと多くの人が、一睡もしないまま夜を明かした。

続く


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