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さかいめの道でキャッチボールをした男の子

私の家の前には「さかいめ」があった。

小学二年生の時に引っ越しをした先は、地方の住宅団地で、区画整理された敷地に真新しい家々が並んでいた。私の家はその団地の真ん中あたりに建てられていて、目の前を走るまっすぐな道は、近所の子供たちから「さかいめの道」と呼ばれていた。

その道は見た目には他の道と何も変わらなかったけれど、子どもにとっては重大な境界線だった。その道を境に、小学校の学区がちがっていたのだ。その道の東側の子どもたちは七小学校に、西側の子どもたちは六小学校に、それぞれ通っていた。私は七小学校に通う子どもだった。その頃の私たちにとって、学校がちがうというのは、世界がちがうこととほとんどおんなじだった。

さかいめの道をはさんだ真向かいの家には、私と同い年の男の子が住んでいた。男の子の名前は、つついさんといった。彼は六小学校に通う子どもだった。

歩いて十秒とかからないご近所同士だったにも関わらず、私たちはほとんど言葉を交わしたことがなかった。それは、私たちが別々の小学校に通っていたことだけでなく、つついさんがとても無口な男の子だったことが大きい。その上、彼はとても端正な容姿をしていて、なんだか近づきがたい雰囲気があった。他の子のように、家のドアをどんどんと叩いて「あーそーぼー!」と誘うことなんて、とてもできない気がした。

にも関わらず、私たちは何度か二人だけで時間を過ごしたことがある。

私とつついさんは母親同士が親しく、母親たちは、時々、どちらかの家でお茶を飲んだ。それだけなら私たち子どもには関係のない話だけれど、母親という人種は時に厄介なもので、どう見ても親しくない二人を「同い年なんだから」という理由だけで無理やりに遊ばせたりするのだ。「ほら、お母さんたちはおうちでおしゃべりしてるから、あなたたちは外で元気よく遊んでなさい。ボール遊びでもなんでも、好きなことをしてきなさい。仲良くできるでしょう?なにしろ同い年なんだから」

その頃の私は、親の言うことはだいたい素直に聞くいい子だったので、うんざりしながらも、そんな様子はちらりとも見せず、言われた通り、つついさんと二人、外に出てキャチボールをした。断ったりしたら、つついさんに悪いなという気持ちもあった。ちらりとつついさんの顔を見てみると、彼も同じようなことを思っているようにみえた。

そういうわけで、小学生の私たちは、月に一二度、さかいめの道でキャッチボールをした。でも、ボールを何往復、何十往復、何百往復投げ合っても、私たちが親しくなることはなかった。私たちは、いつも無言のまま、黙々とボールを投げ、受け止め、そしてまた投げた。つついさんはとても上手で、私のへたくそなボールも軽々と取ったし、私にでも取りやすい優しいボールを投げてくれた。

それでも、もともとキャッチボールなんて全然好きじゃない私は、すぐに飽きてしまう。こんなの時間の無駄じゃん。私は相手の顔をうかがいながら、声をかけるタイミングをはかる。つついさんはずっと表情を変えない。楽しいのかつまらないのかもわからない様子で、ただボールを投げてよこす。 

「ねえ、もう終わりにする?」 

きっと、つついさんだってやめたくてしかたないのだ。私は思いきって声をかける。だけど、つついさんは何も言わずに首を横に振る。そんなこと思いつきもしなかったという風に。そして、私が「わかった。もう少し続けよう」とボールをまた投げ始めると、まるで、花が咲いたように笑った。うんざりしていた私も、「このまま夜になるまでキャッチボールをしていたい」と思ってしまうような笑顔だった。

それぞれ六小学校と七小学校を卒業した私たちは、同じ中学校へと入学した。

中学生になると、さすがに母も無理に私たちを遊ばせようとはしなくなった。クラスも違う私たちは、無言のキャッチボールという唯一の接点も失い、家が近いだけのただの同級生になった。私は、つついさんの存在自体を、ほとんど意識することなく過ごした。

それは、思春期にありがちな「異性を意識するあまりの不自然なよそよそしさ」とはまるでちがう、純粋な「無関心」だった。今にしてみると、自意識の塊のような中学生時代にあって、何にも意識することのない相手というのも、なかなか貴重な存在だったのではないかと思う。

ただ一度、つついさんが野球部に入部したことを知った時は「へえ」と思ったような気がする。へえ、そういえば、キャッチボール、すごい上手だったもんな、と。

つついさんが引っ越しをすることになったのは、中学二年生の秋の頃だった。

その話を母づてに聞いた時にも、私は特に何とも思わなかった。さみしいとも、残念とも。ただ、同じクラスにつついさんのことが好きだという女の子がいたので、「あの子は悲しむだろうな」とちらりと考えたりはしたけれど、それも一瞬のことだった。その時の私は、自分の恋愛や友達関係、それに、急速に不穏さを増していく家庭環境のことで頭がいっぱいだった。同居していた祖母と母の仲が日に日に険悪になり、言い争いが起こるのもめずらしくなかった。

最後につついさんと話をしたのは、彼がいなくなってしまう数日前、学校からの帰り道だった。私たちは自宅へと向かう途中でばったりと顔を合わせ、あいさつも会話もないまま、「並んで」というほど近くはなく、かと言って「別々に」というほど遠くはない距離を保ちながら、家へと歩いた。

なんだか不思議だな、とその時の私は思った。私たちは、毎日、同じ場所(学校)からほぼ同じ場所(自宅)へと歩いていたのに、帰りが一緒になったのは、それがはじめてのことだったのだ。そして、きっとこれが最後なんだろうな。そう思いながら、私は、その微妙な距離を保ったまま、つついさんの斜め後ろ姿を見て歩いた。

家に着き、門を開けながら私がそっと振り向くと、つついさんも同じようにこちらを見ていた。目が合って、私たちは何となく笑い合った。つついさんの笑顔は、相変わらず、ハッとするほどきれいだった。

「転校するんでしょう?」
「うん」

つついさんは頷き、「したくないけどね」と冗談ぽく言った。まるで、ずっとこうして気安く会話をしてきたように自然な様子で。すっかり嬉しくなった私は、顔だけでなく体ごとつついさんの方を向き、「昔、ここでキャッチボールしたよね」と笑いかけた。まるで、ずっとこうして気安く会話をしてきたように自然な様子で。

つついさんは「ちょっと待って」と一度家に入り、すぐに表へと戻ってきた。両手にはミットとボールがあった。

そして、私たちは、何年かぶりにキャッチボールをした。つついさんのボールは相変わらず優しくて、投げられるたびに私のミットの中にすとんとおさまった。小学校のときに使っていたビニールのボールと違って、野球の球は大きくて重くて投げ辛かったけれど、私も一生懸命に投げた。時々、つついさんが「ナイスボール」と声をかけてくれるのがとても嬉しかった。 

小学生の時とはちがい、その頃の私は、自分の家が嫌いだった。嫌いというより、恐ろしかった。できるだけ家にいたくなかった。だから、私は、昔みたいにつついさんに「もう、やめる?」なんて言ったりはしなかった。何も言わず、ただ黙ってボールを投げつづけた。つついさんも同じようにボールを投げてよこした。

それだけ。

それ以上のことは思い出せない。最後にどんな言葉を交わしたのかとか、私がその時どんなことを考えていたのかだとか、なんで泣きそうな気持ちでいたのかだとか、そういうことも何も。

親の都合で引っ越さなければいけないつついさんと自分の状況とを重ね合わせて、「子供の無力さ」なんてものについて考えていたんだ、なんていうのは、今の私がついやってしまう大人の後づけにしか過ぎない気がする。私はただボールを投げていただけ。泣きそうな顔で。同じように泣きそうな顔をした男の子を相手に。 

それきり、つついさんとは会っていない。これから会うことも、きっとないだろう。実を言うと、母親同士はその後もたまに連絡を取り合っているらしく、時折母の口から彼の近況を聞いた。結婚がどうだとか、どこに住んでるだとか、何をしているだとか。そういうことは、もう知らせてくれなくてもいいよ。母親に、やんわりとそう伝えられるくらいには、私も大人になった。だって、そんなことは、どうでもいいのだ。

さかいめの道で、キャッチボールをした男の子。あの男の子が、どこか遠くで、私と同じように年を重ねて、どこかで生きている。他人のような男の人が、今もどこかで何かをして生きている。私が今、泣いてようと、笑ってようと、どうしてようと、そんなのとは関係なくすすんでいく人生がある。

そう思えるだけで、私には、もう十分なのだ。

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