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今年の春、フリーライターをやめた

今年の春、フリーライターをやめた。

ほんのわずかに引き続き書いているものもあるけれど、でも本当にほんのわずかだ。新しく仕事をするつもりも今のところはない。

フリーになったのが2016年の冬で、ライターの仕事をはじめたのはその前の夏。だから、書くことを仕事にしていた期間は、4年に満たない。

ライターをやめたかわりに、会社勤めの事務員に戻った。誰かと一緒に働く日常が恋しくなったから。収入を安定させたかったから。細々とした理由はいくつかあるけれど、でも一番の理由は、シンプルに、書けなくなったから、だ。

「書くことが仕事になったらどんなに素敵だろう」と、ずっと思っていた。ライターの仕事をはじめたばかりの頃、書いていたのは就職や転職関連の記事だった。それは過去の私が思い描いていた「書く仕事」とはちょっとちがっていたけれど、それでも、ものすごく楽しくて、ものすごく幸せだった。文章を書いてお金をもらえるなんて、実際にそうなってみても、うまく信じられないくらいだった。

なにより素晴らしかったのは、やりたいことが、書きたいことが、次から次へとわいてきたことだ。自分の名前が載るような文章が書けたらいいな。インタビューもしてみたい。いつも目にするようなメディアで書けたらいいな。連載とかできる時が来るだろうか。仕事でエッセイを書いてみたいな。小説なんて、いつか書けたら、夢みたい。

もしかしたら、今書いてるものの先にそうした未来が待っているかもしれない。考えるだけで、胸が躍った。明らかなのは、書かなければ、その夢には届かないということ。そう思うと、つまらない仕事なんてなかった。私はいつも全力で、喜んで、文章を書いた。

だけど、たぶん、私は夢をみることに夢中になり過ぎてしまったのだ。書くことそのものに夢中になる以上に。

仕事をはじめて数ヶ月目、初めて自分の名前が載った。執筆するジャンルも、「書けるもの」から「書きたいもの」へ挑戦できるようになっていった。連載記事も書かせてもらった。「いつか」と思っていた、エッセイや小説の仕事までいただいた。私は、とても運がよかった。

書くことは、ずっと楽しかった。苦しいことも、すみずみまで喜びだった。

そう、「今」だけを切り取れば、私はとても幸せだった。だけど、「未来」を思うと、途端に、その幸せは不安にかき消されてしまった。やりたいと思ったことを、次々とやれる。それは、つまり、やりたいことをどんどんと減らしていくことだった。

本当なら、そのやってみたことの中から、一番やりたいことを選びとって、それを続ければよかったのだ。大きな花を咲かせるため、いくつもの小さな蕾を摘みとるみたいに。だけど、私は選べなかった。迷っていたわけでも、こわかったわけでもない。選ぶ必要なんてないんじゃないかと、勘違いしていたんだと思う。私じゃなくて、あちらが私を選んでくれるんじゃないかと、そう勘違いしてた。たとえば、インタビューの神様だとか。エッセイの神様だとか。小説の神様だとか。そういうものが、いつか「あなたはこれを書くべきよ。ずっとこれを書きなさい」と耳打ちしてくれるんじゃないかと。

だけど、もちろん、「こっちだよ」と教えてくれる声は聞こえず、私は、間抜けな様子でただ立ち尽くすだけだった。そうしているうちに、何を書けばいいのかわからなくなってしまった。本当は、私は、そんな風にしている暇はなかったのだ。手を抜かずに、気を抜かずに、しっかり自分で足を動かさなければならなかった。これまで築かせてもらったものを糧に、自分で考えて、決めて、動いて、仕事をしていかなければいけなかった。

仕事を選ぶことだけでなく、こうやってnoteに文章を書くことすらできなかった。それまでの仕事は、「noteに書いたものを見て」と言われて依頼をいただくことがほとんどだったので、ここに書く文章も道筋を決めてからじゃないと書いてはいけない気がした。

もし、私ではなく、家族だとか友人だとかがそんなことを言っていたら、私はきっと、「大丈夫、気にしすぎだって!ちょっと力を抜いて、何も考えずに、まずは何かを、なんでもいいから何かを書いてみなよ!」と言っただろう。気持ちはわかるけど、と微笑んだりして。

でもダメだった。わかっていても、できなかった。書きたい場所、書きたいものを決めて、ライターとして売り込むことも、個人的に書きたい文章を気楽にnoteに書くことも、何もできなかった。それなら、と誰に見せるあてのない文章を書こうと思っても、それもうまくいかなかった。私は、他人の目を意識しないと、細かいことをサボってしまう。本当はもっと丁寧に、細かく、深く、濃く、書かないと表現できないはずの経験や感情を、手近にある言葉で済ませてしまう。確かにその作業は手間もかかって大変だけど、でも、本当はそこが一番楽しいのに。わかっているのに、他人の存在抜きに、その苦労をなかなか引き受けることができない。

そうして、何も書けないままに時間が過ぎていった。画面の前に座り、キーボードの上で動かない指先を見つめながら、私は心の底から自分にがっかりしていた。自分は、そんな風にならないと思ってたのに。私だけは、大丈夫だと思っていたのに。

私がぶつかっていた壁は、どこかで見たことがあるような悩みだった。

Q.好きなことを仕事にして、ある程度やりたいこともやって、でも、それから先が見えなくなってしまいました。一体、どうしたらいいでしょう。

いたるところでそんなお悩み相談を目にしてきた。それに対する解答も、いつも納得しながら読んだはずだ。でも、そういうのは何の役にも立たなかった。

A.仕事をやめる。

そして、一年かけて、私の出した解答がこれだった。本当は、ごく最初のうちに出ていた答えだったのだと思う。それを一年かけて、自分に納得させていった。本音を言えば、今もまだ心の底から納得できてはいない。本当に、すごく、やりたかったことなのに。絶対に手放さないぞと思ってたのに。私はまだ何も成し遂げていない。このくらいで諦めてしまうなんて不甲斐ない。情けない。みっともない。何でもいいから、とにかく、がむしゃらにしがみついてみたらいいのに。

だけど、ダメなんだ。もう書かずにいるのは、限界なんだ。私にとって、大事なのは、書く仕事よりも「書くこと」そのものだ。このまま何も書けないでいたら、それを失ってしまう。もう、これ以上はダメだよ。

何度考えたところで、結局はそれが結論で、それで、私は書く仕事をやめた。

正解なのかどうかは、わからない。そもそも「正解」とは何なのか。これからの行動がそれを決める? そういうのも、どうも、しっくりこない。これまでしてきたことと同じように、今回の行為に対しても、肯定したり後悔したりを繰り返して、そうやって、何だかんだとやっていく。たぶん、そういう風にしか、私はできない。

ただ、はっきりと「よかったな」と思っていることはある。兎にも角にも、こうして文章を書いていることだ。仕事をやめたおかげなのか、それとも、ただ単に、そういうタイミングなのか。理由はいつだってよくわからないけれど、仕事を変えた途端、私は文章を書きたくなり、いいとか悪いとか、上手いとか下手だとか、読んでもらえそうだとかそうでもなさそうだとか、書く意味だとか書かない意味だとか、そういったものをすっ飛ばして、書くことができている。こうして。

今は、テーマを決めて、少しばかりまとまった文章を書いてみたくもなっている。私は、ただ純粋に、それが嬉しい。どうか、書きたいものを書き終えるまで、私が書き続けることができますように。


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