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もう会えない人たちについて 「はじめに」

もう会えない人たちについて、書こう。
そう思いついたのは、つい最近のことだ。

ライターとしての仕事にいきづまり、私的な文章まで書けなくなってしまっている間、それでも私は「何かを書きたい」とずっと考えていた。何も書けないのに、何かが書きたい。でも、何が書きたいのかわからない。一体、何なら書けるのか。

そんなことを考えながら、半年が過ぎ、一年が過ぎ、私は仕事として書くことをやめた。そして、昔していたように事務職として会社に勤め始めた。

退屈な仕事の代表のように思われがちな事務仕事だけれど、私はこの仕事が嫌いじゃない。

毎朝決まった時間に起き、身支度を整え、いつもと同じ職場に向かう。 職場に着くとパソコンの電源を入れ、メールを確認し、その日やることを頭の中で整理しながら給湯室でコーヒーをいれる。顔を合わせた同僚とたわいもない話をする。天気のことだとか朝の渋滞のことだとか。

席に戻り、仕事を始める。たいていは定例の業務だ。書類の作成、データ入力、ファイリング、備品管理、来客応対、電話応対。

そこに差し込まれるようにイレギュラーなことが起きる。急ぎで準備しないといけない資料があったり、あちこちに電話をかけなくちゃいけなかったり。ちょっとドタバタするけれど、それも嫌いではない。それはそれで、落ち着いた毎日のアクセントになる。

そして、仕事を終えて家に戻り、家事育児がはじまる前の少しの時間、こうして文章を書く。

毎日がほとんど同じリズムで過ぎていくこと。それが一番大切だ。予定通りに、決めていたことを、きちんきちんとこなしていく。その繰り返しが、私の心を落ち着かせてくれる。

職場の当たりさわりのない人づきあいも嫌いじゃない。お互いのことを必要以上に詮索せず、適切な距離を保ち、感じよく、大人らしく、言いようによっては表面的なやり取りを、繰り返す。

私は、基本的に、そういう距離感のある職場が好きだ。

職場で親しい友人ができることもたまにはあるけれど、それが目的なわけではないから、距離が縮まらなくてもかまわない。むしろ、それがいい。親しいわけではなく、けれども職業的な資質や性格は理解し合っている同僚という間柄。それが懐かしくなったのも、会社員を再開した理由の、小さいけれど確かな理由の、一つだから。

私は人づきあいが得意ではない。

といっても、初対面でも親しげに振る舞うことはできるし、わりとどんなタイプの人とも会話を続けることはできるし、大勢の人ともそれなりに社交することもできる、と思う。でも、その場その場での振る舞いはできても、それを持続するのは苦手だ。親しくつきあい続けるのは、ごく限られた相手だけで十分。それよりは、どうしても、一人で過ごす時間を優先させたくなってしまう。

だから、放っておくと、好きな相手と、会いたい時にしか会わなくなる。

ほとんどの時間、家で一人で働くフリーライターの仕事は、私のそうした性質に拍車をかけた。最初のうち、一人きりのその生活は私にぴったりに思えた。余分な人づきあいの省かれた、やりたいことだけに集中できる理想の環境。だけど、時が経つにつれ、それほど親しくもない相手との当たりさわりのないやりとりが、ひどく恋しくなった。

それは、ちょうど、「書くこと」という好きなことだけの生活が行き詰まってしまったのと似ていた。人生は、少なくとも私の人生は、好きなものだけでは足りないようにできているらしい。好きというほどでもない、淡い関係や感情がない世界では、どこでどう息つぎしたらいいのかわからなくなる。

そして、私はフリーライターをやめ、会社に勤めるようになった。そのおかげなのかどうか、「書くこと」に対するわだかまりは解きほぐれ、少しずつ「何かを書きたい」の「何か」が浮かんでくるようになった。

そして、思いつくまま、感じていることを言葉にした。自粛生活における不安だとか、仕事を変えたいきさつだとか。そんな風に「今」のことを書いた後、ふいに思ったのだ。次は、もう会えない人たちについて書きたいなあ、と。過ぎ去ってしまった人と、過ぎ去ってしまった出来事について、書きたいと。

何度も言うようだけれど、私はたくさん友達のいるタイプじゃない。本当に親しい人たちは、何人もいない。でも、人見知りをするわけではないし、声をかけられれば出かけていくことも多いし、出会った人の数は少なくないと思う。仕事もいろいろと変わったし。何より、もう短くない年月を生きてきてしまったし。

出会った人たちの中には、もちろん、親しくなって今もつきあい続けている人たちもいる。だけど、そうじゃない人たちの方がずっと多い。彼らの中には、ほとんど話したことのない人もいれば、毎日挨拶だけは交わした人、何度か食事をした人、急激に親しくなり、だけどそれが嘘みたいにあっという間に離れてしまった人など、いろんな人がいる。

共通しているのは、それが過去の出来事で、今の私にはまるで関係がないこと。それどころか、過去においても、特段大きな影響を与えた人たちではない。もし、万が一、私の伝記が書かれるようなことがあっても、まず間違いなく登場しないであろう人たち。

だけど、なぜだか、そうした人たちとの記憶が、繰り返し私の心によみがえるのだ。思い出そうとするわけでもないのに、まるで記憶自身が思い出してくれと言っているかのように、何度も何度も。もしかすると、大切な人との大切な思い出よりも、頻繁に、鮮明に。

なぜなのかは、わからない。何度思い出してみても、その記憶に何か重要なことが隠されてるようにも思えない。私の未来を大きく変えただとか、今も大切な指針になっているだとか。

ただ、私の中には、そうした「恋人」とか「友達」とかみたいには名前のつけられない、ただ存在を知っているだけの他人に近い関係の人々についての記憶がしまわれている場所があるようだ。そして、ふいに、そこから顔を出して、私にその存在を主張する。ただ、ここにいますよ、と知らせるためだけに。

そんな彼らのことを書きたいな、と思う。何の意味も見出せないのなら、見出せないまま、何の意味づけもせずに、ただそのまま。

多くの場合、彼らが今どうしているのかは知らない。ふと思いついて、それぞれの名前を検索してみたこともあるけれど、今の彼らがどうしているのか、ほとんどの場合、何もわからない。だから、私は彼らにこれから書こうと思っている文章への了解を得ることができない。「あなたのことをこんな感じで書きたいんだけど、かまわないかな」と聞くことができない。

ならば、このまま、この記憶の群れを胸にしまったままにしておくのがいいのだろう。それが筋というものだと思う。別に、誰かに感銘を与えるような出来事でもないのだし。だけど、私は、なぜか、それでも「書きたい」と思ってしまうのだ。

だから、せめてもの手立てとして、書く時には、その人だと簡単には特定できないよう、装飾をおりまぜておこうと思う。そもそも、書くのはあくまで私の記憶だから、事実とはちがっていることも多いだろう。それに、私の記憶自体が、もしかしたら、全くのつくりものである可能性もある。私自身が真実だと思っていたとしても。

他にも気にかけていることが、もう一つ。それは、書いてしまえば、彼らとの記憶は、今までとはきっと形を変えてしまうだろうということ。

今までの経験上、書いてしまった記憶は、すっかりと過去になってしまうことがほとんどだ。そこに付随していた生々しさや生臭さが削ぎ落とされ、優しく乾いて私の中に固定されてしまう。まるで昆虫の標本みたいに。そうなれば、もう、記憶たちが私の元に気まぐれな訪問を繰り返すことはなくなるだろう。

そう思うと、少しさみしい気持ちになる。だけど、今は、それよりも「書きたい」という気持ちを優先させたい。短くない間生きてきて、この「書きたい」という気持ちくらいに私の心を踊らせてくれることは、なかなかないと実感しているから。この「書きたい」気持ちが、いつでもいてくれるとは限らないことも知ってしまったから。

だから、とにかく、書き始めてしまいたい。書き終えた後のことは気にせず、とにかく、私の中にある記憶を、ただ私の中にあるがままに。

あるがままに書くこと。それはとてもとても難しいことだ。胸の中にあるものを、そっくりそのまま書くだなんて、今までできた試しがない。書き上がったものは、いつだって、「もっともっとすごかったのに、きれいだったのに、圧倒的だったのに。でも、こんなに大げさでもなく、わざとらしくもなく、白々しくもなかったのに」と私を歯噛みさせる。

だけど、もしかしたら今度は、という思いが、私に言葉をつづらせる。完璧には無理でも、できるだけ、忠実に、ここにあるものを再現できるように。


さて、これで言い訳のような前置きは終わりだ。明日からは、もう会えない人たちについて、書こうと思う。これまでみたいに、仕事から帰った後の夕暮れ時の部屋のテーブルで。毎日、少しずつ。今はただ、それが、とても楽しみだ。


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