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私のみみずくはいつ飛びたつ?

小説家が社会的なことに対して発言する/しないスタンスって、そのときどきにムードの変化があるとはいえ、小説家は機能しなさすぎている、ものを言わなさすぎているんじゃないかと、言われることも多いです。(『みみずくは黄昏に飛びたつ−川上未映子訊く/村上春樹語る−』川上未映子、村上春樹)

2017年に出版された村上春樹インタビュー集。聞き手である川上さんは私と同い年。そして、「十代の頃からずっと村上作品を読んできた」と、この本の冒頭に書かれている。これも、私と同じだ。

だからどうした、と若い頃の私ならば言ったかもしれない。同じ年代に生まれ、同じ作家を読んできたからといって、何の関係があるというのか。その類似を根拠に何かを語ろうとするのは、ただのこじつけなんじゃないの、と。

そう、昔はそんな風に思っていた。人間というのは、そりゃ、多少は他人や環境からの影響を受けるかもしれない。だけど、それはあくまで多少であって、本質的な部分はそれぞれの性質によるところが大きいはずだ、と。だから、たまたま同じ年代に生まれた誰かと共通点があったり、その誰かに共感したからといって、それは世代のせいなんかじゃなくて、ただの偶然なのだと。

だけど、今はそうは思えない。そんな風に自信満々に、「何があったって、何がなくったって、いつどこにいたって、私は揺るぎなくいつでも私自身である」なんて、到底思えない。そんな風に、確固たる自分なんてものがあるなんて、全然信じられない。

なぜなら、変わってしまったからだ。これまで生きてきて、私はあっさりと何度も変化してきた。十年前の自分は今の私とはまるでちがうし、一年前の自分ともちがう。よく観察してみれば一日前の自分とだってちがっている。

そして、それは誰と親しくしたか、どんな環境に身を置いたか、何に興味を持ったか、そんな風に自分が意識的に選択したものだけに影響されたのではない。世の中でどんなことが起こったのか(たとえその出来事と私がなんの関係がなく思えても)、どんなことが流行ったのか(たとえその流行に私がなんの興味もなくても)、どんな思考や言葉があたりに漂っていたのか(たとえそのことに私が気づいてなくても)、そういう時代の空気みたいなものも、というか自分が選択したものたち以上に強く、私に影響を与えてきたことを、今の私は実感している。自分自身でつくりあげたつもりの私なんて、ほんのちょっぴりなのだ。

『みみずくは黄昏に飛びたつ』。このインタビューを読んで、私は、川上さんのさまざまな言葉に「ああ、わかる」と頷いた。これは意外なことだった。これまで、私が川上未映子作品に抱いてきた感想は「理解できない。共感できない」だったから。

何かを面白いと思う時、それはだいたい「わかる!私も一緒!」という共感か、「なにそれ、私と全然ちがう!」という未知への驚きに分けられる。そして、川上さんの作品に感じる面白さは、いつも後者だった。私とは全くちがうタイプの人間。それが川上さんへの印象で、そこが面白いと思っていた。

それが、このインタビューの中ではちがった。私は、川上さんの言葉のあちこちに「ああ、わかる」と深く頷くことになった。そして、その共感の多くは、同じ時代を生きていることが理由である気がした。私と川上さんのように全くちがう人間の間にも、共通する何かを生んでしまうのが「時代」というものなのだと、思い知った。

最初に引用した言葉も、世代を背景にした言葉だ。川上さんは「小説家」と限定した言い方をしているけれど、小説家に限らなくたって、私たちの世代は社会的なことに対してものを言わなさすぎていると思う。

一般的に、わたしも含めて今の若い作家は──もちろん積極的に活動し、発言している作家もいますが、小説家は物語を書く人間だからそういった社会的なこととは線を引くべきだという態度で納得している人も多い。(同上)

川上さんが言うように、私たちは、少なくとも私は、そのことに納得していた。社会的なことに言及すべき人間は他にいて、それは私ではない。私は私のやるべきことを精いっぱいにやる。「社会的」なことは、それを本分にしている人にまかせて。それが正しいやり方だと思っていた。

だけど、この春にはじまった自粛生活をきっかけに、「それは間違いだったのではないか」と思うようになった。内にこもる毎日の中で、私は外側を覗くことに時間を費やした。外側とは、つまり、社会のことだ。私は、TVニュースで、新聞で、ネットの記事で、SNSで、社会の様子をうかがった。同じような情報に何度も接触し、それから別の角度からの情報も探し、取り込んだ。情報はいくらでもあった。過剰なくらいに。必要なのは、それらを取捨選択する目と、それに対する自分の考えだった。だけど、今までの行動のせいで、私の中にはその二つが全く足りなかった。私の中には「社会」が足りない。

打ちのめされた私は、ようやく社会に目を向けるようになった。今まで見なかった、というよりも、目を背けてきたと言えるくらいに避けていた社会に。社会はむずかしくてこわいし、私には必要のないものだと思っていた。必要がないだけでなく、邪魔なことだと思っていた。社会を知ることは、私が知りたいことから遠ざかることだと思っていた。私が知りたかったこと。「世界」の本質だとか、真理だとか、そういうこと。

私は、今まで、「社会」とは遠く離れたどこかに、時代とか世間とかに全く影響されない、純粋で本質的な「世界」みたいなものがあるはずだと思っていた。なにからも自由で自立した無垢な「私」があるのだと信じたように。そういう「世界」にとって、世俗にまみれた「社会」は不必要なことだと思っていた。だから、「社会」を遠ざけた。

でも、それじゃダメだった。それでは、現実でリアルタイムで起こっている出来事に太刀打ちできない。私には知識もなければ、戦う術もない。何より思考するための言葉がない。今日は昨日の続きで、明日は今日の続きだと信じられるのであればそれでよかったかもしれないけれど、もうダメだ。本当は、もう、ずっとずっと前からダメだったのだ。本当は私は知っていたのだ。

そのことで、どこか楽しているんじゃないかと、例えばわたしなんかは、自分に対して思ってしまう。小説家はまず、ちゃんと物語を書くことが大事だと、村上さんがこれまで繰り返し言ってきてくれたから、その発言の「いいとこ取り」をしている気がしないでもないんです。(同上)

そう、私は「いいとこ取り」をしているだけだった。「他に私のすべきことがある」とかっこつけておいて、本当の本当は、ただラクをしていただけだった。怠けていただけ。だから、これから少しずつでも、ちゃんと社会的なものに目を向け、手を伸ばし、足を踏み入れていく。ずっと知らないふりをして、ずっと「いいとこ取り」をしていられればよかったのにとも思うけれど、逃げ切るには、人生は結構長い。

そして気づいたのだけれど、ちゃんと目を見開けば、そこにもかしこにも、どこにだって「社会」は存在するのだ。私が「社会」から目をそらすために選んでいた文学にも映画にもドラマにも漫画にもアニメにも哲学にも詩にも歌にも音楽にも言葉にも、どんなに浮世離れしたように見える作品たちにも、どうしようもなく「社会」は刻まれている。私たちは、逃げられないのだ。

本のタイトル『みみずくは黄昏に飛びたつ』は、哲学者ヘーゲルの言葉が元になっている。

哲学はもともと、いつも来方がおそすぎるのである。哲学は世界の思想である以上、現実がその形成過程を完了しておのれを仕上げたあとではじめて、哲学は時間のなかに現われる。
哲学がその理論の灰色に灰色をかさねてえがくとき、生の一つのすがたはすでに老いたものとなっているのであって、灰色に灰色ではその生のすがたは若返らされはせず、ただ認識されるだけである。ミネルヴァのふくろうは、たそがれがやってくるとはじめて飛びはじめる。(『法の哲学』ヘーゲル)

かつての私が知りたがった「世界」みたいなものがどこかにあるとして、でもそれは以前私が思い描いていたような「社会」から隔たれた場所にあるわけじゃない。それは、「社会」の中、「社会」としっかり向き合った後に立ち上るものなのだろう。

ならば、私はそこに向き合わなくちゃいけない。『みみずくが飛びたつのはいつだって黄昏』なのだ。

私は、私のみみずくを飛び立たせなければいけない。


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