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もし、あの時あの手を握りしめていたら

秘書課の宮野さんは、私の女ともだちだった。

ひとつ年上で、おしゃれで、仕事ができて、最初は近よりがたい感じがしたけれど、実際に話しをしてみると、気さくで、ほがらかで、私のつまらない冗談にもよく笑ってくれる、優しい人だった。

更衣室のロッカーが隣同士で、最初のうちは朝や帰りにあいさつをし合う程度だったけれど、だんだんと仲良くなって、時には一緒にランチに出かけたり、仕事帰りにお茶を飲んだりするようになった。

話すのは、たいてい恋の話だった。

あの頃の私には、そういう「女ともだち」がたくさんいた。出会ったきっかけはさまざまで、学生時代の同級生だとか、前の職場の同僚だとか、全然盛り上がらなかった合コンの後に女子だけで開いた反省会でやけに意気投合した友達の友達だとか。

定期的に顔を合わせて、恋愛事情を報告し合う関係。お互いの恋愛についてはほとんどのことを知っているけれど、それ以外のこと、つまり、どんな子ども時代を送ってきたのかとか、どんな歌を聴くのかとか、何色が好きなのかとか、そういうことはほとんど知らない、女の子たち。

あの子たちは、みんな、どこへ行ってしまったんだろう?

その頃、宮野さんは苦しい恋をしていた。

相手とは毎日のように連絡をとっているし、会いたいと言えば会えるし、朝まで一緒にいたいと言えばそうできた。だけど、一週間後の約束はできても、三ヶ月先の話には絶対に頷いてくれないのだと、宮野さんは悲しげに微笑んだ。

「きっと、やめた方がいいんだよね」

会社近くのカフェでランチプレートを食べながら、駅前のスタバでカフェラテを飲みながら、地下にあるイタリア料理のお店でワインを揺らしながら。宮野さんはいつもそう言っていた。

彼女の言葉に、私はあいまいに首をかしげるしかできなかった。「そうですよ、さっさと離れるべきです」。そんな風に正論を言えるほど、私の方も立派な恋をしてはいなかったから。

その日も、私たちは恋の話をしていた。彼女はいつもよりずっと口数が少なくて、ため息をついては唇をかみ、コーヒーの入った紙コップに口だけをつけた。紙コップを持つ両手の爪は、プラムみたいな色にきれいに塗られていた。

いつもと様子がちがう理由を尋ねても、宮野さんは首を振るばかりだった。かといって、他の話を振っても全く会話が弾まないので、仕方なく私は彼女越しに見える景色を観察していた。

会社帰りの、ファーストフード店だった。裏通りにあったそのお店は、いつも閑散としていた。壁や床はなんだか薄汚れていたし、座った椅子はギシギシと苦しげな音を出したし、店員はいつも不機嫌で、コーヒーは薄っぺらい味がした。それでも私たちは時々そこに立ち寄った。そこだったら、会社の人に会う心配もなく、人混みを気にすることもなく、思いきり話ができたから。

もうすぐクリスマスで、店内には安っぽいアレンジのクリスマスソングが流れていた。私たちのいる2階の席には、いつもと同じように、ほとんど客がいなかった。離れた窓辺の席でテーブルにおおいかぶさるような姿勢でハンバーガーを食べるおじさんと、それから、斜向かいの席に座っているミニスカートの女子高生。

女子高生は脚を組み、片手で頬杖をつき、耳にはしっかりとイヤホンをはめ、テーブルの上に広げた分厚い参考書に取り組んでいた。もう片方の手には、鮮やかな蛍光ペンが握られていた。

あの子も恋をしたりしているのかな?

幾重にもマスカラが塗られたまつ毛や、組まれてぶらぶらと揺れる片脚なんかを眺めながら、私はそんなことを思った。そして、自分自身が高校生だった頃のことを思い返した。高校生だった私も、確かに恋をしていたはずだけれど、あの頃とはなんだか何もかもが違ってしまった気がした。

そのうちに、宮野さんがぽつりぽつりと話しを始めた。忙しいと言われて、彼となかなか会えないこと。電話やメールもそっけないこと。もしかしたら、他にも会っている女の子がいる気がすること。

「もう、会わない方がいいんだよね。それはわかってるの」

いつもの台詞を口にして、宮野さんはうつむき、目を瞬かせた。さっきまで窓際にいたおじさんがちらちらと視線をよこしながらフロアを横切り、出入口近くのゴミ箱にゴミを捨て、トレーを片付け、もう一度こちらを振り返ってから、階段を降りていった。女子高生は相変わらず勉強を続けている。手元の参考書は、どんどんと蛍光ペンの鮮やかな色に染まっていく。

視線を戻すと、宮野さんは泣いていた。小さな涙の粒が、ぽろぽろといくつか頬を転がっていった。組み合わされた両手はテーブルの上に置かれ、指先は小刻みに震えていた。

私は、素早く手を伸ばして、その綺麗に彩られた指先を握り締めたかった。もしくは、彼女の隣に立ち、その肩や背中を、しっかりと撫でてしまいたかった。

だけどそのどちらもできずに、私は、ただ「大丈夫ですよ大丈夫ですよ」と、馬鹿みたいに繰り返すだけだった。宮野さんは泣きながら頷いてはいたけれど、二人ともそんな言葉になんの意味もないことは、ちゃんとわかっていた。


もし、あの時。

私が彼女の指先を、ちゃんと強く優しく握っていたら。あるいは、ファーストフード店のちっぽけなテーブルなんて軽々と乗り越えて、彼女の体をしっかりと抱きしめていたら。

「やめた方がいいよね」と呟く彼女の独り言に、一度でもはっきり「そうです。やめた方がいいです」と言えていたなら。

そうしたら、私たちは「女」なんていらない、ただの「ともだち」になれていたかもしれないのに。


それから数分後、彼からメールが来て(「たまたま仕事が早く終わったんだ。突然だから無理かもしれないけど、もし会えるなら会いたいなって」)、宮野さんは店を出て行った。

「行かなくちゃ」そう言う宮野さんは、嬉しそうというより苦しそうだった。「やめた方がいいんだよね」と言う時の彼女よりも、ずっと。

一人になった私は、空っぽになった目の前の席を見つめて、紙コップに口をつけた。すっかり冷めてさらにまずくなったコーヒーは、何かの罰みたいな味がした。

女子高生は、黙々と勉強をしている。周りの様子なんて気にすることなく、ただただ参考書のページをめくり、時折、手にした蛍光ペンでしるしをつけながら。

あんな風に、私たちにもしるしをつけてもらえたらいいのに。

コーヒーを飲むのを諦めて、私はそんなことを考える。私たちが抱えているものの中から、大事な部分にだけ蛍光ペンでしるしをつけてもらって、それ以外のいらないものは、全部全部捨ててしまえたらいいのに。


年が明けた頃、私は他のオフィスに異動になり、もう更衣室で毎朝宮野さんと顔を合わせることもなくなった。

最初のうちは頻繁にメールのやりとりをしていたし、その度に「またごはん行こうね!」と約束もしていた。実際に何度か飲みに行ったりもしたけれど、しだいに会うことはなくなり、そのうちにメールも途絶えてしまった。

彼女の結婚を知ったのは社内報で、相手は私の知らない人だった。

あれから十年以上がたち、私にはもう「女ともだち」はいない。「男」も「女」もつかない、ただの大事な「ともだち」がほんの少しいるだけで、たくさんいた「女ともだち」は、みんな、どこかに行ってしまった。

そのことを、少し寂しく思うこともある。もっとちゃんと大事にできていれば、ずっと続く関係を育てていけたかもしれなかったのに、と。

だけど、一方で、ああいう風でよかったのかもしれない、とも思う。

私たちはただ恋愛について話すだけの「女ともだち」で、「人生」みたいな大きなものから見たら、くだらない、なくてもいい、軽薄な繋がりに過ぎなかったのかもしれない。

だけど、そうだとしても、ふと彼女たちを思い出したときに、どうしても湧いてきてしまう「みんな、幸せでありますように」という願いは、悪いものではないと思うから。

彼女たちにとって、それぞれ、何が幸せなのかもわからないまま、ただ簡単にそう願ってしまうことは、無責任で、やっぱりうわべだけのものなのかもしれない。でも、それでもいいと今は思う。

大事なものは、大事なものだけじゃないと、今はそう思っているから。

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