DV被害者の支援ーできることとその役割について
DV被害者の自助グループ
DV被害者の自助グループに参加する中で、その役割や限界について最近よく考えていた。
問題を抱え回復を目指す人のための「自助グループ」は、援助活動を行っているNPOなどが主催していることが多く、DV被害者のための自助も各地に存在している。
自助グループでは、ミーティングを進行をするファシリテーターを中心に当事者同士が集まり、お互いの体験や心情を話し、聴き合う。批判や批評・アドバイスなどをしない、匿名のままで参加する、その場で聴いた内容は他言しないこと、などが決まりになっている。
同じ体験をしている仲間に安心して自分のことを話し、自身の内面整理を進めることが、回復に向かう大きな助けになる。
参加して感じたこと
DV被害者のための自助グループには私も別居以降は頻繁に参加し、精神的に助けられることは多かった。
しかし、コロナの影響で対面での集まりが減っていき、代わりにSNSやZOOM等、ネットを用いた交流が進むにつれて気になり始めたのは、現にいま大きな被害を受けているという体験の書き込みや話がされた場合についてだ。
先に書いたように、自助の基本は聴くことで、アドバイスや指示はしないということ。だから、その生々しい被害の報告を目にし或いは耳にしても、すぐに逃げるべき、とは言えない。もちろん、情報を提供することはできる。でも、そこに繋がるかどうかも本人の意志。
自助やそれを行っている団体を批判するつもりは全く無く、割り切れない思いになるのは、どちらかと言えば自分自身についてだ。
たった今、殴られた・蹴られたという人に、すぐに身を守れ・逃げろと言えない、遠回しな反応しかできないのは、どうなんだろうかとずっともやもやしていて、自分には何ができるのか考えていた。
私にとっての支援
私自身が積極的に自助に参加し始めたのは、別居後のことで、結婚生活中、自助の本来の役割である『体験の辛さを分かち合ってくれる場』というのは、私の場合はネット上(自身のブログ)に見つけていて、そこでの吐き出しが自分を保つ術になっていた。
そこで自分が体験している被害や生活について綴り、共感してくれる人を見つけることは、私にとって必要なことで、強い支えにもなった。その一方ネットではないリアルでは、はっきりと自分の現状を指摘してもらえる場や人を、無意識に避けていたというのも確かだ。
それは自分がDV被害を受けていることを、認める心のキャパが当時の自分に全く無かったからで、行動できないでいる自分を責められるように思えたから、無意識のうちにありのままの状況を伝えることをせず、助けを求めることから逃げていたと言ってもいい。
私がブログを書き始めてから別居するまでは7年で、自分の被害をきちんと認識し自ら動こうと思えるまで、それだけの時間がかかったということだ。
長かったと思うし、そんなお茶を濁すようなことを続けずに、とっとと結婚生活など辞めれば良かったんじゃないか、と過去の自分に対して思う。
自分の意志で行動できなくなっている、というのはDV被害の影響のひとつであるし、そこから僅かずつでも自分を取り戻すことを先にしたのだけれど、行動を先にしていれば、傷や負担をもっと減らせていたとも思う。
そう思うから、別居・離婚を決めたあとは、同じ被害を受けている人に行動を促すつもりでブログを書いていた。それまで「離婚すべき」と断言して書くのを避けてきていたのは、その言葉で当事者は責められている気持になる、とわかっていたからだけれど、ブログでもこのnoteにも「そんな男は決して変わらないから『別れる』一択しかないと思う」と書くようになった。
現状を指摘されることは必要
吐き出すことは、結局はその場その場で自分を保つための対処法でしかない。長い目で見れば行動につながることではあるけれど、離婚後の自分自身の心理的な後遺症その他のことを考えても、留まっている時間と共に失うものが多すぎる気がするのだ。
私が別居や離婚に向けて実際に行動できた直接のきっかけは、周囲の人にありのままの自分の現状を話した時に「そんな場所に留まることは無い、逃げて身を守れ」とはっきり言ってくれたり、行動することに介入し協力してくれる人(たち)がいたことだった。
だから耳の痛いことであっても、なるべく早く指摘され現状に直面することは、やはり必要だと私は思っている。
しかし、自助グループには自助の役割があり、それは難しい。たった今大きな被害を受けている、と話す人に対して、どう話すか、何を答えるかということは、もしかしたら自助を主催している人の中にも、迷いや悩みがあるんじゃないだろうか。
それぞれの役割
先に書いた「現状の指摘」をして避難や別居をはっきり促すことができるのは、身内や個人的な人間関係以外では、被害者を受け入れるシェルターを運営する団体や、DV相談に行った場合の警察などがそれにあたると思うけれど、最初にそこに繋がる被害者はかなり切迫した状態で、すでに避難を前提にしていることが多い。
現状を指摘される必要がある状態の被害者としては、これらの相談先はいずれも敷居が高く感じるので、まずはDV被害者の集まりである自助グループに繋がることも多いと思う。
路上で誰かが襲われているのを見たら、見た人は躊躇なく通報するだろうけれど、同じような状況を被害に遭った本人から聞いているのに、その状況から逃げるか通報するかも被害者本人の意志だけに依っている、というのがDV被害だと思う。
逆に言えば、誰の目にも明らかな致命的なケガや被害を負わない限り、有無を言わさず介入されることがほぼ無く、そのような状況でやっと介入されたときには、あらゆる意味で取り返しがつかない。
だとすれば、自助に繋がっている被害者を含め、できるだけ早くその本人の意志を動かすための、さまざまな方向からの働きかけを一層増やしていくしかないんじゃないか。
精神的な支えの場である自助、電話や対面でのDV被害相談、避難に応じてくれるシェルターなど、被害者支援をしている団体や機関には、それぞれの役割があり働きかけもしているけれど、それらが役割に応じて連携しスムーズに補い合えるかというと、難しいところも多いと思う。私自身が被害当事者としてそれらの各団体と関わってみてそう感じた。
被害者が、その後自分で必要な相談機関や窓口を求めて、自ら訪ねて行くしかない。情報は与えてもらえるけれど、行くか行かないかは当然ながら自分の意志による。
しかし、被害者の多くは、その「自分の意志」が失われ、自分が本当は何を望んでいるかわからなくなっていたり、判断が偏り危うくなっている人が多い。長期間の暴力や暴言の影響でそうなるのだけれど、表面的には普通に見えることが大半なので(というか、普通の顔をせざるを得ないのだ)周囲からも危険な状態にいることがわからなかったりする。
情報発信という方法
誰かやどこかの直接的な指摘や介入、ということ以外では、被害当事者本人の意志をはっきりさせ、身を守ることの必要性を認識できるようにするしかない。それもできるだけ早く。
自分が我慢しなくては、という暴力によるコントロールや洗脳を解くためには、たくさんの正しい情報に接して自分を取り戻していくことや、行動のきっかけになるような言葉に触れていくことだ。リアルなら一番いいけれど、ネット上でもそれは可能だ。
それは支援団体にも発信できることだけれど、個人にできることもあるだろう。
私自身、団体で何かの活動をするとか、旗を振って先頭に立つつもりもないけれど、今は安全な暮らしをできるようになった同じ体験を持つ者として、自分の行動範囲で自分のキャパで、できることはしていこうと思うし、グループや団体の役割のすき間で物を言うことが、それに当たるだろうと思っている。
役割や立場を持つ団体では不可能な「個人の考え」で発言すること。例えばブログで、そんな男は今すぐ捨てて自分の身を守れ、と言い続けること。
それでどの程度の被害者に届くのかはわからないし、直接働きかけるのに比べたらどうなんだろう、とも思う。でも長い期間ブログを書いてきてそれなりの数のフォロワーさんもいるのだから、少しは役に立てるんじゃないか、誰もができる範囲の少しずつのことをしていけば、全体としてそこそこの働きにはなれるんじゃないかと考えている。
団体やグループ同士では相互に連携できていない場合でも、個人がSNSでシェアすることで、支援の情報を双方の団体に繋がっている人それぞれに広めることができる。
「啓蒙活動」というような大したことではないけれど、正しい情報・体験した事実を多くの人が発信していくことで、被害者が手にできる行動するきっかけを増やしていきたい。本人の意志を待っているうちに取り返しがつかなくなる、ということが少しでも減るようにと思う。
「DVは犯罪である」ことが当たり前の認識として共有され、暴力や暴言に晒されている被害者が自分を守ることは、必要な当たり前のことだと、誰もが思うような社会に近づいていくことを願っている。
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