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怪しい世界の住人〈七福神〉第一話「宝船のこと」

① はじめに

 七福神は仏教の神ではありません。しかも、日本古来の神ですらありません。ですので、七福神は古事記等の神話にも登場しませんが、播磨陰陽道ではこの神に祈って様々な幸福を得てきた経緯があります。この七福神のお話をどこで扱うかについて少し悩みました。色々と検討したところ『怪しい世界の住人』で扱うのが最も適切であるとの結論に達しました。
 基本的な七福神は、日本の神々と外国から来た神々が習合したものです。〈習合〉と言うのは複数の神仏がひとつになった姿のことです。また、七福神は時代や地方によって同じ神でも内容や姿が微妙に異なります。
 現在、最もポピラーなものは、恵比寿天・大黒天・弁財天・毘沙門天・寿老人・福録寿・布袋の七柱の神を〈七福神〉と呼んでいます。
 また、吉祥天などの女神が入っている場合や、恵比寿天・大黒天以外の神々の内容がすべて違う七福神など様々あります。
 大黒天を例にあげると、青年の姿である時や、少年期や、皆さんがご存じの老人の姿まで様々なお姿があります。
 そして、七福神には宝船が付き物です。これは初夢に関係した祈りの一種で、本来、宝船に乗っていたものではありません。
 あまり知られてはいませんが、宝船の後ろ側には鬼が乗っていることが多いです。宝船が去ると、来年にまた来ると言うことになります。去って行く後ろ姿に、

——来年のことを言うと鬼が笑う。

 と言う意味で笑う鬼が乗っているのです。しかも、この鬼、両手に扇子を持って踊っていたりします。茶化しているのですね。
 古くから、夢を操る播磨陰陽師たちは夢の世界に起こる現象として〈七福神〉を捉えていました。そして、七福神の行法などを通じてめでたい物事を祝っていたのです。

② 宝船の由来は?

 七福神と言えば宝船がつきものです。大きな字で〈宝〉と描かれた帆船に乗った七福神たちのイメージを、皆さんは心に描けるかと思います。お正月にはこの宝船の絵をあちこちで見かけます。
 宝船の絵を飾る風習は、いつ、どこではじまったのでしょう?
 最初の宝船の絵は京都五条高辻の〈五条天神〉で売られた物でした。今でも正月に五条天神へ行くと古い種類の〈宝船の霊符〉を買うことが出来ます。この時の宝船には七福神は乗っておらず、ただの小舟に稲穂が乗せられていました。絵のわきには万葉仮名で〈かがみのふね〉と添え書きがしてありました。
 これはこの舟が〈少彦名すくなひこなの神〉の乗り物であることの名残だそうです。蘿摩かがいもの実の皮で造られた舟に乗って常世の国から流れて来た小人の神が〈少彦名〉と呼ばれる神です。この舟を一般に〈蘿摩舟かがみのふね〉と呼びました。そして蘿摩舟を作り悪夢や罪穢れを乗せて海に流す風習が昔はありました。
 沖縄ではこの風習が〈蚕舟かいこのふね〉に変化してその他の古い風習と共に現在に残っています。
 宝船の形は、それまではただの小舟のようなものでした。それが江戸時代の少し前に〈帆掛け舟〉に進化しました。はじめ帆には〈ばく〉の字が書かれていました。
 この頃の宝船の絵と言えば〈夢違ゆめちがえ〉または〈夢祓ゆめはらえ〉の霊符として使われるのが一般的でした。これらは悪夢を取り去る霊符です。大晦日の夜に枕の下に敷き、翌日には燃やすか埋めるかしたものです。
 この霊符に、大晦日から元旦の朝にかけて見る〈悪夢〉を取り去ってもらい、その翌日に良い夢を見ることを〈初夢〉と呼びました。そのことから、正月二日に初夢を見ると言われるようになった訳です。
 やがて、初夢の宝船の絵に七福神の絵が書き加えられるようになって、悪夢を祓うための霊符から良い夢をもたらすための霊符へと進化して行きました。
 さて、戦国時代も終わり頃のことです。弥勒船みろくのふねが来ると言う信仰が世間に広まりました。これは、時代が変わる時、弥勒菩薩が現れて世の中を救ってくれると考えるものです。その頃にはじまった福の神信仰の中に弥勒菩薩の生まれ変わりと言われている布袋尊ほていそんがいたので、弥勒船に布袋尊が乗って来ると考えたのです。
 諸説はありますが、これが七福神が宝船に乗ることになった最初です。そして、布袋尊は宝船の船頭になりました。宝船には布袋尊だけが船頭をしています。他の神々は船頭をすることはありません。理由は、船頭が多いと、船頭多くして、船、山へ登るになりなねないからかも知れません。これはつまり、布袋尊の気に入ったところへ宝船が行くと言うことです。この布袋尊と呼ばれる不思議な福の神はただの太ったオヤジではありません。
 人望のあった布袋尊を慕ってか、他の理由か、やがてどこにも居場所のない福の神たちが宝船に乗るようになったのです。
 宝船には七柱ななはしらの福の神が乗っていると思われていますが、実は、帆の裏側に鬼が一匹と、布袋尊の袋の中に十八人の子供たちが隠れて密航しています。かなりたくさんの人々が乗っているのですね。
 そしてこれが江戸時代に入ると宝船の帆に〈宝〉の字が書きこまれるようになり、現在に至ります。

③ 宝船の絵に書くこと

 宝船の絵には必ずつきものの要素があります。
 ひとつは、回文かいもんと呼ばれる文章です。回文は〈たけやぶやけた〉に代表される、上から読んでも下から読んでも同じ発音になる不思議な文章のことです。
 平安時代の代表的な回文に、

——をしめどもついにいつもとゆくはるはくゆともついにいつもとめじを。

 と言うのがあります。
 こちらは、

——惜しめども、ついにいつもと行く春は、ゆともついに、いつも止めじを。

 と読みます。
 これは行く春を惜しむ文章ですが、宝船に書きそえられる回文の方は、

——なかきよのとおのねむりのみなめさめなみのりふねのおとのよきかな。

 と言うものです。
 こちらは、

——なかきよの、とおのねむりの、みなめさめ、なみのりふねの、おとのよきかな。

 と区切って読みます。
 上から読んでも下から読んでも同じ意味なる文章になりますが、これに漢字をあてはめると、

——長き世の、遠の眠りの、皆、目覚め、波乗り船の音の良きかな。

 となります。
 昔は濁音を書かなかった場合がありますので、上から読んでも下から読んでも同じ発音に出来るのです。
 この文章は回文使いの文章ですが、正確には〈祭文さいもん〉と呼ばれます。祭文と言うのは呪文の一種でめでたい時に使うもののことです。
 そして、多くの宝船の絵には必ず〈みおつくし〉と呼ばれる不思議な記号が描かれています。続く。

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