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怒りを含んだ言葉が唇の端っこからぴょんっと飛び出してくる。
私のお口のチャックは完全には閉まらないみたいで。
攻撃的な言葉を投げられる度に、反論や言い訳をしたくなる。こちらにはこちらの言い分があるんですと。
だけど、向けられた矛に矛で向かいたくない。矛には盾で守るしかない。武器を持たずに防具で精いっぱい守りに入る。
最初っから交わらない方が良いのだ。
大切にしたいものはきっと互いに違うのだし、違う世界を見ている。
こんな気持ちになったのはかなり久しぶりだった。
価値観が違う。会話が成立して、かつ互いの価値観を受け止めようとする意思があるなら交わっても構わないと思う。「価値観が違うことを認めない」という価値観の方と言葉を交わすことは、私にとっては大変に難しい。時間もエネルギーも大量に消費するし、結果手元に残るものなんて、ボロボロになった盾と己の身体だけ。そんな場合ばかりだ。交わってしまった場合に、その引き際を早く察知するということ。それが相手のためでもあると信じたい。
①建設的に。
②冷静に、穏やかに。
第一声に叱咤や愚痴や文句が出てくるのなら、それはとても悲しい人間だなと感じる。
「話をする」という行いには、「話し手」と「聞き手」の二者がいる。そしてどちらも人間であることを忘れてはならない。「話し手」は「聞き手」の立場になって、違った受け取られ方や解釈がなされる可能性を踏まえ、その言葉の選択や伝え方で良いのかを何度も何度も検討すべき。「聞き手」は「話し手」の立場になって、意味や意図を推し量り、自身の解釈の妥当性を何度も何度も確認すべき。そしてその検討や確認が、その通りになる訳ではないことも認識しておかねばならない。
対話をするということは、この二者が絶え間なく入れ替わり、また個人自体が変容し…を何度となく繰り返すことだと思う。
思うことと言葉にすることがイコールであっていい筈はない。
運動器官を介して思いが音になる。口から言葉が発せられる瞬間というのは、個人がその箱から公共の世界に放り出される瞬間でもある。公共世界に一度出してしまえば、時が戻ることはない。
口に出された直後の言葉は記号でしかない。形の裏にある“意味”を拾い上げようとする人が一体どれほどいるのか。
胸の真ん中で生まれた感情をよく咀嚼し、よく反芻する。頭がGoサインを出してから音にする。“感情”というのは、発することが目的ではなく、自分の考えをまとめ、可視化するのに使うもの。
大抵のことはその日のうちに片を付けられるようになったけれど、そうじゃない日もたまにはあるみたいで、こんなにも時間が掛かってしまった。
私にとって嫌だと思うことが、タイミングを計ったかのように続けざまにやってくる。
きっとこれを乗り越えたら。
タスクの書かれた付箋が一枚、また一枚と風に飛ばされて消えていく。