アメリカ史を学ぶために岡田斗司夫さんのYouTubeの内容を書き出した③『航空産業と禁酒法と差別』

アメリカを変えた夏

戦前のアメリカはヨーロッパのき締め付けから逃げてきた移民たちが、田舎臭くておおらかで豊かな大自然の中で暮らしているような人が多い国でした。それが、おおからな国を辞めて繁栄を目指し、その混乱がその後ずっと付き纏う国になってしまいました。
今では世界をリードする超巨大国家となったアメリカが、たった一夏で変わってしまったという話です。

それが1927年の夏。

第一次世界大戦前後の世界の航空機

第一次世界大戦(1914-1918)のアメリカは航空産業は先進国最下位でした。日本やオーストリアよりも弱かったようです。当時はフランスが1番飛行機を持っていたみたいです。それでも30機だったようです。
当時アメリカの軍関係は飛行機が使えるという事をまだ知りませんでした。当時、ライト兄弟がアメリカ空軍に偵察などにも使えると売り込みました。空軍はしぶしぶ飛行機を、2機だけ購入しました。これがアメリカの全航空勢力でした。ちなみにライト兄弟が動力飛行機を開発したのが1903年。

1914年、大戦に突入して実際に使ってみると、飛行機が偵察だけでは無く、爆撃など戦争に使えることが分かってきました。
爆撃機が開発されると、今度は爆撃機を守るための戦闘機というのが開発されるようになりました。ちなみにこの頃の空中戦が多くのアニメや映画の空中戦のモデルになっているそうです。

第一次大戦の4年間でフランスでは航空産業が一大産業になっていきました。航空産業に力を入れはじめ、20万人を雇い7万機の飛行機を作りました。(4年間で30機から7万機。ちなみに他国は多くて3〜4機)イギリス5.5万機、ドイツ4.8万機、イタリア2万機の飛行機を作りました。各国合わせておよそ20万機の飛行機にかかった費用が10億円?もっとあるよ?くらいで、これら全てアメリカのモルガン商会からの借金で賄われました。この借金の返済が敗戦したドイツに課せられ、第二次世界大戦に繋がっていく流れになります。

1918年に戦争が終わり、1919年のパリ講和会議でドイツはGNPの20年分という莫大な賠償金を支払う事が決定しました。ちなみに第一次世界大戦の賠償金を支払い終わったのが2010年でした。(ディスカウントなどはしてもらっていますが。)ドイツはこの借金を70年かけて支払いました。

フランスの航空産業と死者

飛行機が多く出来たので飛行機の操縦士を急遽募りました。それが1916年。飛行機は生まれてから10数年しか経っていないので、教えると言っても、先週教わった人間が教える立場になっているような状態でした。

1917年の調べでは、フランスのパイロットの平均余命が6日間だったそうです。戦争で亡くなったパイロットは4万人、飛行機学校で訓練中に1.5万人亡くなったそうです。訓練中に、戦争中に、とても多くの若者が死んでいきました。

アメリカの航空産業と不況

1917年アメリカが参戦した当時は陸軍航空隊というのがありました。飛行場は2つあり、将校は50人、兵隊が1300人、飛行機が225機ありました。それが、戦争が終わる頃には、飛行場が50箇所、将校が2万人、兵隊は18万人、飛行機は1.7万機作られていました。アメリカは参戦後1年で戦争が終わって、失業者で溢れました。

世界大戦が終わると大量の飛行機乗りは失業して曲芸飛行などが増えました。ちなみに紅の豚の空賊として描かれているのは、この頃の失業した飛行機乗りという設定で描かれていたそうです。

この頃、フランスではデパートの屋上に飛行機で着陸出来たら1000万ドル?という賞金をかけたキャンペーンを打たれました。その結果、大量の飛行機乗りが挑戦して、失敗し、事故って死んでいきました。このためデパートは賞金を取り下げました。

そんな頃、ニューヨークでもアメリカ、ヨーロッパ間の大陸間飛行に賞金がかけられました。2万5千ドル。それが世界中のニュースになりました(10億円程度) 。当時の飛行機としては1時間飛べば良い方だったので、夢物語として扱われていました。志のある飛行機乗りは数年かけて準備しはじめました。

1926年、ロシアのシコルスキーとフランスのルネ・フォンクが組んだが、滑走路を飛び立てなませんでした。その理由は成功用のお祝いシャンパンを40本積んでいたからなのですが、それで大喧嘩したそうです。

秋冬の大西洋は荒れているので、フライトは27年の春を待つしかありませんでした。他の多くの志願者もいましたが、アメリカ号、コロンビア号など有力とされていた飛行機も頓挫してしまったみたいです。リージョン号も1927年の春に飛び立つが重すぎて墜落し、即死してしまった。白い鳥号もフランスを立ったが、大西洋に消えてしまったとの事でした。さまざまな挑戦が失敗していたため、誰もが大西洋横断なんて不可能だと思っていました。

そんな頃、アメリカでは大陸横断飛行を単独で成功したリンドバーグという青年が、そのままフランスまで行ってくると動き出しました。その大陸横断飛行が成功した事で、航空産業が一気に隆盛し、その後の第二次世界大戦ではアメリカは多くの国に借金を貸し付けました。のんびりとした農業大国であったアメリカが、成長を目指して工業、産業大国として動きはじめるきっかけになったのがこの年でした。

大陸横断飛行と新聞

その頃のアメリカで大陸横断がとても話題となったのですが、大騒ぎとなっていたのには新聞が流行していた事と関係があります。アメリカのメディアが誕生したのです。
1920年後半というのはアメリカで最も活字が読まれていた時代です。ちなみに1930年代になるとラジオが生まれ、人々は受動的なメディアを聞くようになります。
当時のアメリカ人は夢中になって活字を読んだそうです。新聞の平均購読部数が1.4紙だったそうです。ニューヨークだけで毎日14紙が発行されていました。

新聞が流行するきっかけは、イギリスで『デイリー・ミラー』というタブロイド紙が流行っていた事と関係があります。王様のスキャンダルや殺人事件、ゴシップなど大した内容では無いものがイギリスにあると知って、アメリカでも同じ事をやろうと始めたのです。
『イラストレイテッド・デイリーニュース』というのがとても流行って、犯罪、有名人、ゴシップといったある事ない事が載ったゴシップ記事が流行りました。そこでは写真がとても大事だったようです。『ニューヨーク・デイリーニュース』『ニューヨーク・イブニング・グラフィック』という無いことしか載っていない事を売り文句にするような新聞がバカ売れするような時期だったようです。

禁酒法とお金

その当時、禁酒法が成立するという状況でした。1920年に禁酒法が成立しました。アメリカ人が法律を守らなくなった年と言われています。1920〜33年に禁酒法が施行されました。禁酒法が施行されたにもかかわらず、誰も法律を守らないためにアル中の患者が3倍に膨れ上がりました。ちなみに酒税は当時の連邦予算の10%を賄っていました。禁酒法によってそれが一斉になくなってしまいました。州ごとの財政でも、例えばニューヨーク州の酒税による税収は半分だったようです。禁酒法のため酒を売ってはいけないので、連邦予算の10%、州の予算の半分が無くなってしまいました。

おまけに命の危険がありました。政府の予算は減るにも関わらず法律を守らせるために、お酒として飲ませないために工業用アルコールにストリキニンゲや水銀などの毒を混ぜました。そのために禁酒法が施行されている間は毎年1.3万人が毒死しました。ちなみに当時の人口比率と現在の人口比率で考えると、現在の年間の銃で亡くなる人と同じくらいの割合の人が毎年亡くなったとの事です。
誰も得しない、誰も守れない法律を守らせるためにアルコールに毒を混ぜたために人が死にました。

禁酒法と宗教派閥、ドイツと新聞

どうしてこんな馬鹿な法律が生まれたのかと言うと、キリスト教にドライという禁酒派閥とウェットという飲酒派閥がありました。アメリカのキリスト教主義者はプロテスタントとして堕落したカトリックからの脱却という流れと、昔からの神様が許した範囲で飲んでも良いという考えの対立があったのです。

禁酒法を後押ししたのは新聞の流行と、ドイツが空爆の威力を測るためにフランスの領域に12時に1個だけ爆弾を落とすという実験を行った事でした。
世界最初の爆撃となったはパリ市街です。戦争といえば、兵士と兵士が戦うのが常識でしたので、一般市民が巻き込まれるとして当時のウッドウィルソン大統領は抗議文を送りました。これがアメリカが第一次大戦に参入する口実の一つにもなりました。初めて民間人に空爆を行った事で、ドイツ憎しの感情がアメリカを席巻しました。

更にドイツは民間の客船も攻撃対象だとしてルシタニア号(アメリカの国籍ではない)という客船を魚雷で爆撃しました。1/3は女子供で皆死んでしまうという悲惨なものでした。

その頃のアメリカのビール業界は全部ドイツ系移民によって作られていたので、当時のアメリカ人は、憎きドイツのビールを禁止に!という気持ちだったらしいです。ちなみドイツ人はビールの製造、販売、酒場をやっていました。
ドイツ人はロビースト活動をしていて、(ヴィルヘルム2世のための政治活動)それを、タブロイド紙によって暴かれました。
パリの爆撃、ルシタニア号爆撃がアメリカ中に広がり、ドイツ憎しという世論が形成され、ドイツはあっという間にアメリカの敵になってしまいました。

同時期の記事に、ドイツ人の家や店に石やレンガが投げ込まれたとか、道を歩いていたドイツ人が星条旗でグルグル巻にされてリンチに遭って死んでしまったという事があったようです。裁判にもなりましたが、裁判官が愛国的殺人は無罪であるとしたのです。これは1910年代の話。これによってドイツ人はいくら殺してもいい事になってしまいました。

禁酒法で憎きドイツ人のビールだけを禁止するつもりが、気がつけば禁酒法が成立して自分たちが飲むつもりだったお酒類のほとんどが飲めないと気づきました。そして、闇酒場が流行しました。

ドイツ人に関するもの、ドイツ語、ドイツ人が作曲した曲などがアメリカ中で禁止になりました。アイオワ州では英語以外禁止とまでなりました。
ビールは全部ドイツ系だったので、ビールをやめようとか、我々の敵はドイツとビールだと言われていたそうです。

この時にお酒の業界が守れば良かったのですが、ビール業界とウィスキー業界が足の引っ張り合いをしていたので酒の権利を守るには至らず、ドイツ憎しのために禁酒法が各州で制定されていき、3/4の州で禁酒法が批准されました。アメリカではこれによってアメリカの憲法として禁酒が決まってしまいました。
ホルステッド法というのが決まってしまい、0.5%以上のアルコールが違法となってしまい、飲める酒が無くなってしまったのです。

アメリカの差別と裏社会

19世紀末には絶対的なイタリア差別がありました。黒人差別のような目に見える差別。その前にはドイツ人差別、その更に前にはイタリア人差別がありました。

この頃、イタリア系アメリカ人は差別のために仕事に就きたくても就けなかったのです。例えばマサチューセッツ州の知事はイタリア人のような汚れた人種はマサチューセッツには入れないということを公約にして選挙に出て当選していました。そこまで酷い差別があったのです。
イタリア系移民はイタリアからアメリカに渡ってきても他の土地に行けなかったので、ニューヨークのエリス島に上陸しました。他のヨーロッパの人たちは上陸して大陸に散らばりましたが、イタリア人達は受け入れ先が無かったから仕方なくニューヨークに留まりました。結果的にイタリア人のコロニーが出来上がり、地下組織、マフィア、ギャングが出来上がっていったのです。

禁酒法の制定で一番問題だったのは、アメリカ人が法律を守る人がすごく少なくなった事だと言われています。

元々アメリカは腐敗したカトリックから正教徒達であるピューリタンが大陸に渡ってきて、理想の国家を作ろうとしたのがアメリカでした。そこでは先住民族を殺したり、愛国的殺人といった行き過ぎたものも沢山ありました。しかし、アメリカ人は自分達を神に選ばれた地球上に理想の国を作るんだという建国意識が凄くありました。
そこに禁酒法は決まったけど酒は飲むしか無いしと、法律を破る事が当たり前になってしまった。

酒税として取られていた金がどこに行ったのかというと、スピークイージーというギャングやマフィアなどが運営する闇酒場に流れました。
これは今のアメリカを揺るがす銃社会、犯罪、麻薬問題などこれら全てを加速させました。それは禁酒法時代に起因していました。大量の資金が闇社会に流れ、大きく膨れ上がる土壌を作ったのと同時に、一般市民が法律は守らなければいけないという意識をものすごく低めてしまった事が直接原因だと言われています。

学んだこと

航空産業の発展の陰には大量の訓練生が亡くなっていたことを知りました。ライトスタッフでも思いましたが、多くの犠牲の上に立っている技術なんだと思うと何とも言えない気持ちになりました。

禁酒法の裏には、キリスト教のプロテスタントとカトリックの思想的対立とドイツ憎しの感情が同時に起こっていました。ドイツ人をいじめるために、ビールを廃止させたい流れに、プロテスタントの飲酒を止めたい流れが合流して加速してしまった事が伺えました。

これからの世の中は日本に居ながら多国籍な交流が求められるようになっていくので、アメリカが辿った多民族をいかに包含していったのかという歴史は学ぶ必要があると思いました。

人間は差別する生き物であることを前提として、それをいかに乗り越えていくのかという事を次世代を担う人たちに小さいうちから考えさせていかないといけないなと思いました。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?