ロングスリーパーの憂鬱

 自分に必要な睡眠時間は8~8.5時間くらいで、厳密にはロングスリーパーではないだろうが「気味」ではある。少なくとも多くの人より多くの睡眠を必要としている。
 生活や環境を改善することで「睡眠の質」をよくし(入眠に至る時間や中途覚醒を減らし)、結果として「床に横たわっている時間」を減らすことはできるが、持って生まれた「必要睡眠時間」を減らすことはできない。現代の科学、医学の知見ではどうすることもできず、この体質とは死ぬまで付き合うしかないのが現実だ。
 AIが順調に進化すれば科学技術のブレイクスルーが連発する「テクノロジー爆発」はいずれ起こるだろうし、医学、脳科学も急速に進展するとは思う。とはいえ(庶民が気軽に安全に)睡眠をコントロールできる時代が来たとしても、それは未来すぎて現在51歳の自分にとっては「遅すぎる」のだ。

 ロングスリーパー(気味)の人間にとって、実質的に生きている時間は短い。6時間睡眠で生きられる人より、自分は一日あたり2時間損しているとも言える。この差はとてつもなく大きい。
 だから、時間を節約することには金は惜しまない。食洗機は圧倒的な時間節約になるので神だと思う。一方で電動アシスト自転車は、力の節約にはなるが時間の節約にはならないし(厳密にはわずかに時間も節約できるだろうがコストに見合ったものではないし)足腰のトレーニングにもならないので買う気にはなれない。
(わたしは現在、やたら起伏の激しい高尾に住んでいるが下半身のトレーニングと割りきり、気合いで自転車を漕いでいる。電動アシスト自転車に乗るじいちゃんばあちゃんにすーーーっと横を追い抜かれると若干腹は立つ笑)

 頭髪をセルフカットの丸坊主にしたのも、床屋への往復の時間、床屋でぼんやりしている待ち時間、髪型を考える時間、髪を整える時間、そしてなにより毎日の洗髪時間を節約するため。
 もちろん坊主頭にすることで捨てなければならないものはあるが、この世はすべてトレードオフである。自分はそれよりも「時間」を取ったということである。
 小説家という職業柄、日常的に人に会うことはないし、人と会うとき(外に出るとき)は常に帽子をかぶっているので、坊主頭がそれほどマイナスにならないというのもある。

 これ以外にも、とくに日常の家事や雑事でいかに時間を節約するかってのは常に考えているし、実践している。引っ越しを機に、念願だった「掃除の自動化・省力化」を実現できたし。
 とはいえ、あの手この手を費やしてもショートスリーパーの人が持つ時間には遠く及ばない。それを補うのは「時間あたりの充実度」と「生存日数」だと考えている。「充実度」という言い方は誤解されそうだが、なにも「充実した毎日を送ろう」とかではなく。
 たとえば一日18時間起きている人でも、起きている時間のほとんどが「頭が痛い、腰が痛い、肩が上がらない、気分が乗らない、鼻がズルズルする、なんかだるい」人と、一日16時間しかなくても「起きてる時間ずっと心身ともに絶好調!」の人では、単位時間あたりの密度はどちらが高いか、という話。
 後者の「生存日数」は説明するまでもないだろう。けっきょく人の生きた時間というのは、実質的に「起きていた時間(活動時間)×生存した日数」だから。生存日数を延ばせば、当たり前だけど活動時間も延びるよね、と。
 それもただ闇雲に延ばすのではなく、心身とも不調のない充実した時間でなければあまり意味はない。生きていてもずっと寝たきりじゃ、活動時間は実質的に延びないので。(寝たきりで生きていることに意味があるかどうかは個々人の価値観・生命観によるので、ここでは触れないし、考慮しない。あくまで「『活動時間』が延びたとは言いづらいよね」という話)

 とまあ、いろいろ書いてきたが、自分がこういうことを考えるようになったのはおそらく40代になってから。思考の中心となり、重要度が増してきたのは40代の半ば以降だと思う。
 人生の残り時間が見えてきたというのもあるし、そのころから睡眠科学が急速に進展してきたのもある。子どものころから睡眠に悩みを抱えていたため、睡眠に関する情報は自然に取ってきた。
 せめて中学生のとき、いまの知識があればもう少し生きやすかったのにな、と思うところはある。ロングスリーパー(気味)で、さらに睡眠障害があると、本当にこの世の中は生きにくいのである。当時は「人それぞれ必要な睡眠時間が違い、それは努力でどうすることもできない」ことすら人類は知らなかったから。体内時計に関する研究が進んできたのも本当に近年になってから。
 いまは自分に必要な睡眠時間も把握できているし、科学的な知見を活かすことで(さまざまな方法を試行錯誤して)睡眠をコントロールできるようになったきた。ある程度は入眠障害と中途覚醒も抑えることができている。
 もっとも20代のころに現在の知識があり、ある程度でも睡眠をコントロールできていれば、小説家にはなっていなかっただろうが。

 話を戻そう。「時間あたりの充実度」を高めるにはなにより健康と、体の不調をひとつでも減らすこと。だから自分は健康を維持するためいろいろ努力している。ただ、50代で自分のように体の不調がいっさいないのは恵まれたことだとは思う。
 肩が凝ったことはないし、五十肩とは無縁でぐるんぐるんだし、頭や腰の痛みもないし、目も疲れないし、遠くも近くも視力は充分だし(なんなら山生活をはじめて視力上がってきた感すらある)、花粉症はないし、太ってないし、「なんかだるい」というのもないし、いっさい悩みも憂いもなく心も毎日晴れやかだし。本当に毎日が絶好調。
 と思っていたんだけど、高尾に引っ越して毎日のように山で仕事するようになって、さらに輪をかけて毎日が絶好調!になった。絶好調の向こう側に到達した。山を歩いて運動して、きれいな空気を吸って、日光を浴びている効果だろうか。
 自分の睡眠時間が持って生まれたもののように、この健康力も多分に持って生まれた資質が大きいと思う。どんなに努力したって自分のような健康ボディを手に入れられる人はほとんどいないと思うので。そこは感謝しているし、ギフトだと思っている。
 じつは小学生のころはすごく病弱で、それによって自分の体に気を遣う意識が若いときから生まれ、それがおっさんになったいま実を結んでいるのかもしれないが。

 もし叶うのならば、いまの心身ともに絶好調な状態を80歳まで維持したい。もちろん簡単なことではないだろうが、自分にはできると信じたいし、可能なかぎりその理想に近づきたい。
 トータルでは自分は本当に恵まれていると思っているし、だからこそ睡眠時間の多さ(一日の活動時間の短さ)も納得して受け入れている。
 運命は残酷だし、人は生まれながらに不公平。それでも人生は、生まれた瞬間に受け取ったカードをいかに駆使して生きるか、だと思う。そのためには自分の持っているカードを正しく知ることが大事だよな、ってことはしみじみ思う。
 この歳になってようやくわかってきたこと。

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