教養って何

最近は教養って言葉が流行ってます。でもその使われ方には疑問があります。たぶん使ってる側も疑問を抱えながら使ってる感じはします。そこで自分なりに教養って何なのさということを考えてみました。

まず「教養」が何かはえらい人や頭のいい人もちゃんと定義するのは難しいみたいです。なんか本に書いてました。

私は「教養」って言葉を聞いて「教養ある大人」とか、最近よく聞く「教養としての〜」というフレーズを思い浮かべます。
教養ある大人ってどんな人か考えてみます。
あくまでイメージなんですけど、物静かで、ちゃんとしてる人って感じがします。
逆に教養のない大人は、常識知らずみたいなイメージです。当たり前のことを知らなくて、当たり前とは違う行動をしている人。
そういうイメージから考えると、教養人というのは、常識人という仮説が立てられそうな気がします。

しかし、物静かって言うのはどこから来たんでしょう。
最近は物静かな人は有名になることはできません。インフルエンサーか大学教授とかじゃない限り有名な教養人を知ることはできません。だからなんとなく物静かさは一般的なイメージじゃない気がします。

話を戻します。
教養人は常識人なのでしょうか。常識を知っているだけでは教養があるとはみなせない気がします。
昔からの言いつけにしたがって生きている田舎のまじめなおばあちゃんとかを、あえて教養ある人とはいわない気がします。もしその人が大学を出ていて、学校の先生だったことがあったりしたら、教養ある人というような気もします。

そこから、知っているべき常識の範囲が狭められるような気がします。
人々が当然知っている常識を知っているだけでは教養人とは言えない感じがします。
大学教授でいろんな理論を発明していても、身なりに一切気をつかわず、めっちゃ変なかっこで壇上に現れて、べらべら持論を展開してさっていくタイプの人は、教養があるとはみなされないように思います。
そのひとが持っているのは教養ではない、もっと別のすごいものです。
一般常識をもっていないと、教養は持てません。これが私の考えです。別に根拠はありません。いままで生きてきたフィーリングでそういう言われ方してるかな〜って思った程度の話です。
ていうかこの記事全部がそうなんですけど。

ではどんな常識が必要なのか。
私の考えは、現代の社会問題を論じるための最低限の知識を持っていることです。

じゃあシェイクスピアは教養じゃないじゃんって感じがしますが、少なくとも文学の今後の在り方とかを語るにおいては、当然必要とされる知識なんじゃないでしょうか。
文学の今後の在り方は、当然社会における論点だと思います。出版のあり方も情報発信のあり方も変わってきており、新文学?と純文学?のバランスも大きく変わっているような気がするからです。

西洋美術は?NFTやAI絵師などの新技術について語る上で、西洋美術とその価値の歴史は欠かせない知識でしょう。
でも、これは誰の絵でこれは誰の作品とか知ってるだけでは、それは雑学の範疇を得ない気がします。それはどのように作られ、評価され、所有されてきたのかを知らないと、社会問題を考えるのに生かせません。

歴史は?歴史の知識なくして、世界の新しい歴史を展望することはできません。
でも、年号と出来事を覚えているだけでは、高校のテストも解けません。そういう人は教養ある人っていいませんよね?これがどんな意味を持つ出来事だったかわかっていれば、似たような出来事が今後起こってきたときに、判断材料にすることができます。

このように現代を論じるための最低限の知識のことを教養というんじゃないかな〜と思います。そのため、時代によって教養というものの内容は変わってくるかもしれません。

さらにこれらは能動的に使うものではありません。つまり積極的な議論を仕掛ける時に必要とされるのはこの程度の知識ではなく専門的な知識だからです。
このへんが「物静か」と考えた理由のような気がします。

以上は私がなんとなく考えただけなので仮説の検証はできません。
あと、私は教養ある大人ではありません。🤪上で挙げたような知識を私は実際には持っていません。あしからず……

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?