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「泣いたら治るのか」

父に、そう言われたことがあります。
当時小学2年生だし、自分の部屋のベッドで泣くくらい許してやれよと思いつつ、父らしいなと思い出しています。

週末は父の車で出かけ、外食をする。そんな昭和の家庭で育ちました。基本、母の料理で育つわけです。家庭は一見平和ですが、母の一方的な犠牲で成立してるから、繊細な子には安心できる家庭ではありませんでした。

体が弱い子でした。今思えば、免疫が低いのも仕方ないと思うのですが、愛着形成で乳幼児の段階で母から肯定・父から否定を素直に受け取り、循環気質のある繊細な少年に育ちました。

記憶にない幼児の頃。幼児の私が熱性痙攣起こして、歯を食いしばらぬよう、布を巻いた匙や、道具が間に合わなければ指で、口の空間を確保してくれたそうです。母が。吐いても吐瀉物で窒息しないように。

そんな背中を見て、父は母親は凄いなと学び、自らも父親の自覚を育てて行きました。例えば、息子の発熱が続き、冷凍庫では間に合わないから、氷屋さんに氷を買いに行くことから始めて。(氷屋さん、私は見たことがないので、氷屋さんが身近だった最後の世代かも。まだコンビニが少なかったのでしょう)

小学2年頃、中耳炎になりました。電車やバスを乗り継いで、耳鼻科に毎週通います。

耳鼻科は怖いです。中耳炎痛いし。でも、帰りに買ってもらうホカ弁が楽しみでした。たぶん、ハンバーグ弁当だったはず。
母が普段作ってくれる料理とは味が違うのが、嬉しくて。温かいお弁当の、手のひらにひだまりが出来るような温かさも好きでした。

(当時は、最寄駅に、まだコンビニが出来ておらず、温かいお弁当がなんだか特別でした)

母は、通院で疲れたから親子のご飯を買ったのでしょう。病気ばかりらする子に、通院お疲れとねぎらってもくれたのでしょう。
私は外では泣かないけど、家では中耳炎が痛くて泣くので、母も共感能力高いから、子どもの痛い苦しいは激しくストレスだったようです。

強く伝わりすぎてしまうのですね。

見かねた父が私の枕元に来て「泣いたら治るのか」って言いに来ました。酷い!

でも、確かにそうだねと、涙が引っ込んだ経験があります。

父はダブルスタンダードはしません。大人になって気がついたのですけど、彼も「泣いたら治るのか」と似た言葉を自分に言い続けて、生きたのでしょう。

👆ヘッダーは環さんからお借りしました。

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