当たり前ってどんなもの?
【今日食べたクッキーの話】
画像のクッキーを貰ったので、コーヒーと一緒にいただきました。
たいへん美味しかったのですが、ふと思った事があります。
パッケージの写真には、綺麗な星型のシュガーがあしらわれていますよね?
でも実際のクッキーは・・・
これ。
まぁ星っちゃ星かもしれません(笑)
でも全然ぐっちゃぐちゃ。
文句はありません。
美味しかったのだから。
ただ、おそらく日本の製品ならこんな風ではないでしょう。
工夫を凝らして完璧に近い星が並ぶように作るはずです。
そして、そのレベルが当たり前だと認識される傾向も強いと思います。
しかし、それは本当に“当たり前”なのでしょうか?
【最低限満たされるべきライン】
例えばクッキーを例に挙げれば、最低限満たされているべきラインは
甘くて美味しい事
ではないかと私は思います。
その上で、見た目も可愛らしく、できれば個包装で、値段もお手頃・・・
などといった条件を満たしてくれれば、尚良い商品だと認識します。
でも、これって義務ではないですよね。
もちろん数ある商品の中から選んで買ってもらうためには工夫が必要です。
そのためには義務でない条件も率先して満たしていく努力が必要でしょう。
じゃあ、その努力ってどこまで突き詰めればいいのでしょうか?
【物ではなく人だとしたら】
広く世界に存在する職業のひとつに、スーパーのレジ打ちがあります。
レジ打ちと聞いて皆さんが思い浮かべる姿はどんなものでしょうか?
①レジ前で直立してお客様をお出迎え
②表情は笑顔で
③打刻は素早く
④袋やドライアイスの希望をそつなく確認し
⑤お肉やお魚類は何も言わなくても小さなビニールへ入れてくれる
たぶん日本だとこんな感じですよね。
これを“当たり前”と感じる人も多いと思います。
・・・が、例えばイタリアのスーパーだと全然違います。
①まず椅子に座ってお出迎え
②笑顔とか無い
③打刻は別に急がない
④袋どころか買い物かごを乱暴に扱うため商品がこぼれる&他の客の物と混同する
⑤生肉用の袋?ナニソレ?
だいたいこんな感じです(笑)
小さめの個人店だと愛想よく笑ってくれたりもしますが、営業用に笑うというよりは本人がご機嫌なケースが多かったように思います。
大事なのは、じゃあイタリアのレジ打ちの人は職務怠慢なの?
という点です。
私は怠慢だとは思いません。
椅子に座っていようが笑顔が無かろうが、レジを打刻して支払いを済ませている以上は最低限を満たしていると考えるのが妥当だと思います。
もちろん他のスーパーではなく選んで自分の店に来てもらうためには、笑顔が多かったり、会計がスムーズだったり、細やかな気遣いが有ったりした方が有利ではあるでしょうけれど。
でもそれは、義務とは違う。
【それぞれの最低限と文化】
日本人の国民性として、勤勉であったりより上質なものを求める職人気質な所がよく挙げられますね。
それ自体は決して悪い事ではないと思います。
私も自分の仕事に対しては1枚の原稿を作るのに声を出し、身振り手振り、話のリズムを確認して、時間配分は・・・と、けっこうなカロリーを消費して仕上げます。
ただ、これはあくまで相応の対価が得られる前提でのお話です。
先ほど例に出した海外の接客業の方も皆が皆、椅子に座って適当にお出迎えではありません。
折り目正しくお辞儀をし、優雅に先導してくれる方もたくさん居ます。
しかしその場合、彼ないし彼女の貰う対価は座ってレジを打つ仕事とは全く異なる物なのです。
日本はどうでしょう?
私は今の日本に、戦後何十年をかけて築かれてきた文化に、とても強い危機感を覚えています。
時給1000円に満たないコンビニの店員さんに、一体どれだけ複雑な仕事が任されているでしょうか?
最低賃金に毛の生えたような金額で働くスーパーの店員さんに、どんなレベルの接客応対が求められているでしょうか?
そしてそれらの要求が適正なものなのかどうか・・・
私は、日本の労働者には今の給料の倍額を貰っていなければおかしい人達がたくさん居ると思います。
プロなのだから“当たり前”という強すぎる呪文が、国民性と絡まって多くの人の首を絞めているのではないでしょうか。
私の首も絞まってます。
厳しい時代ですね。
でもこれが“当たり前”だとは言いません。
だって世界に照らせば事実として、これが“当たり前”ではないのですから。
ほんの少し、自分の“当たり前”を緩めてみる事が出来れば
「ふざけるな!」「どういうつもりでやっているんだ!?」
なんて思わずに、気持ちに余裕を持って他者と接する事ができるかもしれません。
ここまで読んで下さった皆様には是非、明日そうやってチャレンジしていただきたいと思っています。
そうしたら明日はちょっとだけ、今日よりマシになるかもしれないから。
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