冷めた僕らと冬の風呂

冬の家族の中で最後に浸かる湯はぬるい。
それはまるで、冷めてきった僕らのようだ。
人間には惰性というものがあり、恋人たちは好意のピークを過ぎても多少温かみがのこる。
そのほんの少しだけの恋人たちの温かみ、それはぬるい湯とイコールだ。

冬の空気は冷たい、ぬるい湯よりも格段と。
それはまるで、雑踏の中にも関わらず誰もが猛独に襲われる人間社会のようだ。人間社会は冷たい。社会の冷たさと冬の空気はイコールだ。

寒い空気にさらされたツーリングの後なんかには、温かい湯に浸かりたくなる。
恋人たちも同じで、猛独に襲われる冷たい社会で傷付いた心身を癒すため、誰かと付き合い温ため合う。

しかし時間が経てばお湯が冷めるように、恋人たちも冷める。いや、覚めるの方が適当かもしれない。1世代前に流行ったTHE TIMERSの歌、セブンのCMでお馴染み「デイ・ドリーム・ビリーバー」のワンフレーズ「ずっと夢みさせてくれてありがとう」とあるように、交際というものは長い夢なのかもしれない。

でも、私たちは1度浸かり始めた湯から簡単に出ることは出来ない。
だって、湯から1歩でた外の空気は湯よりも格段と冷たいのだから。
社会というのは、冷めた愛情なんかよりも格段と冷たいのだから。

そのうえ、ぬるま湯で身体を芯から温めることが出来ないように、冷めた愛情で心を満たすことは出来ない。
温められない、満たされない、だからより一層、抜け出せないのだ。そこは大して幸せな空間でもないのに。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?