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「冀祷ーhope prayerー」

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「直也はさ、卒業しても写真…撮り続けるの?」

 大学時代、付き合っていた彼女からそんな事を言われたが、青年は一瞬手を止め「写真で食ってく自信はないから……趣味で続けようと思う」と返した。

「そっか」と彼女は少し寂しそうな顔をして呟いたが、青年はその表情に気付かない振りをしてシャッターを切った。

 それから青年が大学の4年生になった頃、まわりが就職していく中、青年の焦燥感と社会への不信感は募っていた。

 そうして、ようやく就職先が決まったのは年もそろそろ暮れる頃だった。

 そんなある日、青年のスマホの通知音が鳴る。

 夕焼けの写真と共に彼女からの『今日の夕焼け、綺麗だったよ』というメッセージ。
 そんな何気ない一言だったが、青年は煩わしそうに短く『ごめん、気付かなかった』とだけ返した。

 しかし、彼女は青年の心境に気付かず『仕事、お疲れ様。あんまり無理しないでね。良かったら…今度の休み、カメラ持ってどこか遊びに行かない?』というメッセージにも直ぐには返信せず『ごめん、暫く忙しい…』

 ただそれだけの言葉を返した。

 彼女は『そっか、ごめんね』とだけ、返して来た。
その短い文は何処か寂し気にも見えたが、青年は何も思わなかった。

 今年に入って、新型のウィルス性感染症が流行し始め、友達と会う事も出来なくなってきたと共に彼女とのすれ違いも増え、彼女の『別れよう』の一言で、二人の関係は呆気なく終わった。

 青年には、もう彼女を引き止めるだけの心は残ってはいなかった。

 好きなカメラにも触る気が起きず、次第に荒んだ感情は、彼を闇の淵に立たせていた。

 毎日遅くまでなれない仕事をこなし、唯一の休日もやりたい事は出来ずに、睡眠に充ててしまう。

 そうして、ただただ過ぎて行く日々にうんざりしていた頃、青年のスマホに一通のメッセージが届く。

 それは、祖母の“訃報”だった。

 ご時世柄、身内だけで通夜と葬式を済ませた後だった。
 青年は、母親から一つの箱を受け取った。

「これ、おばあちゃんの病室にあったの……」

 青年は何も言わず、その箱を受け取った。
 しかし、その場で中を見る気分にはなれず、家に持ち帰った。

ーーーーーーー

「俺だって、なりたかったよ……」

 そう呟く青年の手には、幾重にも巻き付けられたビニール紐があった。
 それが、彼が今から実行しようとしている“自殺”が、如何にも衝動的だという事を物語っていた。

 乱れた息遣いに、虚ろな瞳、震える指先。

 そんな青年に追い討ちをかけるかの様に、締め切られたカーテンの隙間からは暖かな陽が差し込んでいた。

 部屋の隅には、いつから出されていないのか溜まりに溜まったビールの空き缶と、使い古したマスクのゴミ。
 ソファーにはくたびれたスーツと、喪服。
 部屋の真ん中に置かれているローテーブルの上には、バッテリーの切れたカメラ。

 そして、古びた箱。

 青年はゆっくりと立ち上がり、カーテンレールに紐を何度か巻くと、机を窓辺に寄せ、その紐に首を掛けた。

 彼は、ゴクリと唾を飲み込み。その後、強く机を蹴った。
 絞まる気道。暴れる巨躯。遠のく意識。
 しかし、無情にもビニール紐などで、健全な青年一人の命が絶てる程、甘くはなかったのだ。

 紐は、プツリと切れた。

 その衝撃で、青年は強く床に落下する。
 絞められた気道は、空気を求め拡張し、頭にじんわりと、意識が戻っていく。
 血流が戻り、ドクリドクリと心臓が鼓動した。

 落下した衝撃で、テーブルに置かれていた古い箱の中身が散乱していた。
その箱の中身は、祖母の遺品だった。

 手の先にそっと触れたのは、青年が子供の頃に祖母に強請って買って貰ったポケットカメラで撮影した祖母の写真。

 ファインダー越しの自分に向けられる優しい笑顔。

『おばあちゃんね…直ちゃんの撮った写真、大好きよ』

 その笑顔は、今も頭から離れない。

「俺だって、なりたかったよ……カメラマンに」

 写真を握り、子供のように泣きじゃくる青年は、朝日を浴びるまで祖母を思い返した。

 青年の涙が枯れた頃、ふと箱の中に古い手紙と絵の“切れ端”に気付く。

 手紙には、祖母が生まれるよりも前の日付が刻まれていた。

 青年が手紙と絵の切れ端に触れた瞬間の事だった。

 そこは、自分の住むワンルームの部屋ではなく、とても古い家だった。

油と絵の具の匂い。目の前には、女が座っていた。

ーーーーーーー

 絵師である女はここ数日、部屋に閉じ籠るようになっていった。

 そんな女の元に、手紙を持って訪れる男。

 男は、女の兄であり閉じ籠っている女を支えていた。
 女は男の手にある手紙を見て、また憂鬱そうな表情を浮かべるのだった。

 手紙の内容は、自分の絵の愛好者の訃報の知らせ。

 このところ、そんな日々が続いていた。

 それは、彼女の傍に積まれた手紙の束が物語っており、その時代でもまた、青年の時代と同じく世の中が流行病に侵されていた。

 この時代では今よりも尚、多くの人が死に、それに怯えた人々の心をも蝕んでいった。

 疫病を恐れた人間たちが、患った者、治療しようと奮闘する者たちをも迫害し、出所の知れぬ噂に踊らされ、働く場所を失った者たちは職を追われ、疫病を恐れ、閉じ籠った人々はやがて“禍<まが>”に侵され、自らも死へと追い詰め、世界は混乱に陥っていた。

 人々には最早、絵などといった芸術や文化や娯楽を楽しむ余裕などなかったのだ。

 今の女には、この世に於いて何を描けば良いのか分からなくなっていた。
女も気付かぬ内に、少しずつ“禍”に侵されていたのだ。

 女の兄もまた、“禍”に当てられようとしている女を心配していた。

「あゝ……私の絵を見て誰も笑ってはくれない。それならもう一層……」

 ふと、女は筆を取る。そこから、何かに操られるように動き始める。

 男の願いも虚しく、女へ“禍”の侵蝕が始まったのだ。
 “禍”は人の心の闇を喰らい大きくなり、伝染する。
 そして、最終的に依代となった器をも殺す。

「ならば最期に一つ、遺そう」

 兄は女を止めようとするが、女は最早…兄の制止すら受け入れなかった。
 自らの絵を一番、愛してくれていた者の存在すら分からなくなっていた。

「許さない。私は、必死の想いで、生きて、生きて、生きてきた。
それなのに……それなのに……お前は私から刻を奪った。人を奪った。機会を奪った……だから、許さない。許さない……お前なんて、許さない」

 恐怖、悲しみ、恨み、苦しみ、辛み、孤独。
 負の想いでカンバスに色を落とす。

 真っ黒な、想い。

「私たちを苦しめるのは神か?仏か?いや、もうこの際……そんなのは誰でも良い!
何者にせよ、これ以上、私を苦しめると言うのなら……私は、許さない!
これ以上、奪わせてなるものか!」

 女の想いは呪いとなって、膨らみ、そして、新たなる災を産み出そうとしていた。
兄はその姿を見て、グッと決心したように刀を抜き、静かに呼吸を整え、何かを見据えると女に一太刀、浴びせるのだった。

「邪魔をしても、無駄だ!」

 真っ赤な、想い。

 兄は、女の呪いを切る。しかし、一度“禍”に侵された女の筆は止まらない。
 どんどんと溢れる呪いをただ、鎮めるように兄は刀を振るう。

「やめろ!私を止めるな!この想いを断ち切られてしまったら、私は誰を、何を恨めば良いのだ!この恨みを誰にぶつければ良いのだ!」

「誰も、何も恨むな。誰の所為でもない。仕方のない事なんだ」

「『仕方がない』なんて言葉で片付けるな!」

「恨んだところで、時間も、人も戻らない。
後ろを向くな。生きている者は、残された者たちの無念を背負い、前へ進むしかないのだ。俺たちには、それがどんな負戦だとしても…立ち向かって来た過去がある。
貧しさも飢えも災いも戦も越えて、生きて、繋いで、今の俺たちが此処にいる。
だから…前を向け」

「私の向く先には、道はない……」

 そこには、絶望に燃える木がそびえ立っていた。

「俺たちには、それぞれ生まれ持った武器があって…その道を切り開く為…生きる為に戦う術がある。お前が今、向き合っているのは、恨みを晴らす為のものなのか!」

 女は徐々に呪いを払われるが、その筆を止める事はなく、兄はなす術なく刀を納めた。そんな時、ふと手元の扇に気付く。

 それは、女が兄に贈ったものだった。

「こんな世界で生きていたって……」そう嘆く女に兄は強く訴える。

 生きろ、と。

「何を希望に生きていけば良いの?」

 兄の言葉と払いによって、動けなくなる女。そんな女に兄は答える。

「生きる事とは、耐え忍ぶ事だ。耐え忍ぶ事は、戦いだ。禍に負けて、生命を落としてはならない。絶望して、自らを殺してはならない。
今は会えなくても、今は笑えなくても、触れ合えなくても『生きてさえいれば』……また会える。また笑える。また触れ合える。
絶望に踊らされ武器を振るうのでなく……希望の為に、己が武器を振るえ。
そして…逆に、お前自身が人々の希望になるんだ」

 その言葉で、ようやく女は兄と視線を交わすのだった。

 自分を想ってくれている人は、ずっと側にいた。
 離れていても、きっとそれは変わらない。その人が疫病によって奪われたら、そんな得も知れぬ恐怖に怯え、本質が見えなくなっていた。

 女の呪いは兄によって、払われた。

 先程とは打って変わって、女は華を愛でるよう優しく描く。 
 そして、兄も刀から扇子に持ち変え、力強く奮っていた刀とは変わり優しく舞う。

 絵が完成したその刻、青年は大きな希望の桜を見る。

「さぁ……君は、どうする?」
 二人は青年に、そう問いかけるように見つめるのだった。

ーーーーーーー

 数日後、カメラを持って、公園を歩く青年の姿がそこにはあった。

 あの時に見た桜と同じく満開に咲く桜にカメラを向けるとシャッターを切る。
 青年は満足そうな笑顔で、モニターを覗くのだった。



 疫病は、災害だ。誰も悪くない。
 だからこそ、怒りや悲しみをぶつける先がなく、心を蝕んでいく。
 溜まった鬱憤は、時に大切な者に牙を剥き、それはやがて人災となる。

 女は希望の念を込めて。

 男は救済の念を込めて。



 一刻も早く、この厄災が終息しますように

 お互いに失った者への弔いを込めて。

『生きてさえいれば』また……。

ー完ー

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