見出し画像

(雑談)比較や対立で物事を捉えるのが全てではない

最近気づいたことなのですが、テレビ番組、とくにバラエティ番組って「比較」するのが大好きですよね。「男」と「女」、「良い」と「悪い」、「正義」の反対には「悪」があって、「敵」の反対には「味方」がいて、「今」の反対には「昔」がある、みたいにわりと二極を対立させるような形にして物語を演出しているように見えます。選挙等でも、たくさん候補者が居る中で気づいたら二人にフォーカスされて、対立するような構造が出来上がっていたりしますよね。

そしてこれはテレビに限らず、Youtubeでも大概そうですね。以前外国出身のYoutuberさんが雑談配信の中で、日本のものを紹介するときはかならず自分の国ではこうなっている、だから日本がすごい、と説明するようにしていると仰られていました。「日本」の反対に「自分の国」を置いて、やはり比較の形で説明するようにしているのでしょう。

確かに物事をわかりやすく捉えるなら、このような対極を捉えるのが一番シンプルだと思います。アンパンマンの対極にバイキンマンが居てくれるおかげで、子供達は安心してアンパンマンを応援できる。ただ、現実の世界を見るときは、必ずしもそういう対立構造ばかりではないので、安易に対立や比較の形で捉えないほうがいい、とも思います。

ところで、話をしていると勝手に対立構造に「したがる」人、結構いますよね。とくにある程度年配世代になると、そういう人がとても多いかなという印象です。ある程度知識や経験もあるので、比較対象が豊富なのかな。

先日「こうこうこういうことがあって、あー日本良いなーと感じた」という話を雑談でしていたところ、相手が急に「中国だとそうはいかないですもんね。なんせ~」という話をしだして、困ってしまったということがありました。その人の中では「日本」と「中国」が対立構造になっているのでしょう。だから日本の良さの反対に、中国の悪さがあって、おそらく日本の良さを説明する「ため」にわざわざ中国を持ち出してきたのでしょうね。そこに悪気とか他意はたぶんなくて、自然とそういう思考になったのだと思います。ただ私としては、別にそういう話をしたかったわけでもなく、その後の会話もずっとぎくしゃくしてしまいました。

そもそも会話の中で「日本」という主語を使ってしまったのが間違いだった、と後で反省したのですが、そういう観点でいろんな人との話を見返してみると、なるほど対立構造な、と感じたわけです。

Youtubeでもコメントを色々いただくのですが、「あなたの動画は○○と違ってすごくいい」と私と全然関係ない人の名前を出して褒めて?くれる方が結構いらっしゃいます。コメントをいただけるのはありがたいのですが、その○○という人がコメントを見たら嫌な気持ちになるでしょうし、素直に「あなたの動画『が』すごくいい」だけでいいのにな、と思ったり。また個人的には、模型作品とかに「△△さんの作風と似ていてすごくいいですね」と言われると、嬉しいどころかイラっとすることもあります、私は私であって、なんで他人の作風と比較されないといかんのよ、と。でもこれも「対立構造」で捉えた結果なのでしょうね。

後半文句ばかり垂れてしまいましたが、つまるところ何が言いたいかというと、私はそういう「対立構造で物事を捉えたがる人」が嫌いです、ということと、だけど実際にはその捉え方が一番普及しているよな、って思ったということです。もちろん全部が全部だめだってことではなくて、たとえば新製品を説明するときに旧製品と比較するとか、そういうときの対立構造は必要ですよね。そんなお話でした。

見出し画像は「みんなのフォトギャラリー」からお借りしました、ありがとうございます。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました!