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(雑談)「他人に期待」はするだけ損

前々から書いてますが、私は「自分で操作できない物事と感情を結びつけるのはよくない」と思っています。操作できないものごとに一喜一憂すると、自分の感情の安定性が損なわれるからです。野球の応援など、ハラハラドキドキを楽しむという理由があれば別ですが、そうでない限りは基本的に、感情は自分のコントロール下にできるだけ置いておきたいと思っています。

中でも「他人」に対しては、できるだけ期待しないことにしています。というと冷たく聞こえるかもしれませんが、仕事で期待しないとかそういうことではありません(仕事では、信頼した相手はぞっこんLOVEです)。

たとえば車の運転をしているとき。周りの車に「こうしてくれるはず」と期待してしまうと、思った通りの動きをしなかったときにイライラすることになります。「この道は50キロでみんな走ってくれるはず」「前の車はすぐに左折してくれるはず」「横断歩道の歩行者は小走りで抜けてくれるはず」とまわりに期待してしまうと、期待通りにならなかったときに腹を立てることになります。でも周りの車や周りの人に一切の非は無いのです。ただただ自分の思い描く理想通りにならなかったから、イラつくのです。その原因は自分が理想を思い描いたから、そしてその理想に「他人」と他人という不確定要素を取り入れてしまい「こう動くはずだ」と期待値を設定してしまった自分のせいなのですよ。

昔話ですが、私は高校生の頃、ゴールデンウイーク後半によく憂鬱な気分になっていました。それは、ゴールデンウイークだから、誰か友達が遊びに誘ってくれたり、家族が遠出に連れ出してくれるだろうと勝手に期待し、期待通りにならなかったからです。でも冷静に考えてみれば、そもそもゴールデンウイークに友達から誘ってほしければあらかじめ予定を決めておけばいいですし、家族に対してもゴールデンウイーク中何する予定があるのか、事前に聞いておけば良かった。ないしはどちらも無ければ、自分でバスや電車に乗って遊びに行けばいいのに、そういう「自発的な努力」を一切せずに、ただただ周りに期待だけして、期待通りにならなかったからとウジウジしていたのです。そんなの周りからしたら「何勝手に期待してんだよ」って話ですよね。

でも意外と、周りに勝手に期待しちゃうのです。「もしかしたら…」とちょっとわくわくしてしまうものです。もちろんその「もしかしたら」が叶えられたときに嬉しい気持ちになるのは良いことです。ですが、もしかしたらに期待しすぎて、そのもしかしたらが叶わなかったときに勝手に落胆するのは、提供する側からすれば「勝手にどうぞ」でしかないのですね。

サービス提供者に勝手に期待して「でもそうならなかった」から落胆したり、食べログやアマゾンで低評価をつけたり。政治や世の中に勝手に期待して「昔はよかったのに、今は…」と勝手に落ち込んだり。他人に期待したところで、その期待が実現するかどうかなんてわからないんだから、そこに感情を結びつけて一喜一憂してたらしゃーないでしょ、もたないよ、と思ってしまうのです。

できるだけ、自分の感情を不確定要素と結びつけない。どうしても不確定部分があるならば、期待値が高くなるように「自分が損失を被るリスクをなるべく低減する」ように行動する。そもそも感情と切り離して考える。こと、他人に対しては、勝手に期待しない。そういうこと、引き続き大事にしていきたいなと、個人的にはそう思うのです。

そんなお話でした。見出し画像は「みんなのフォトギャラリー」からお借りしました、ありがとうございます。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました!