見出し画像

『最高の家出』一モノノフの考察

「擬似家族みたいなモチーフが好き」
「家族とか、恋愛関係/恋人とか、そういうラベリングされた関係じゃない関係性を作っていく」

【劇トクッ!】三浦直之、登場!②より

『最高の家出』の脚本・演出を務めた三浦直之さんは、自身の作風についてこのように述べている。これら2つの価値観は、本作においても最大のテーマであり、これらを原動力として物語は進行していく。本稿では、これらの観点とその変化を軸に、この作品の考察をしていく。

「模造街」の役割

本作の最も特徴的な存在は「模造街」である。家出をした主人公・箒は、模造街(劇場)から逃げ出した男・港に劇場の存在を教えられ、訪ねる。

劇場は内側から外界に出ることはできず、外界とは半分隔絶された環境である。そのため、模造街では、現実世界から独立した秩序が形成されている。そして、劇が進むとともに、保たれていたように見えた現実世界・模造街それぞれのしがらみ/歪な構造が明らかになっていく。

  • 箒と淡路の壊れた夫婦関係

  • 足取と身軽の歪なコミュニケーション

  • 現実と劇とが混濁している背中

  • 妊娠を隠しているテレカ

  • 外界を知らないアハハ

  • 珠子の後悔

これらは全て、劇が進行するまでその本質が露呈しなかった。むしろ観客は、それらが明かされるまでこれらを知らずにコメディーチックに描かれた模造街の世界を面白おかしく見ていたのである。

私は、これこそがこの物語の重要な構造であると考えている。すなわち、本当に気付かなければならない問題は内側からはわからないのである。

では、なぜ登場人物および観客はこれらに気付くことができたのか?それは、「模造街と現実世界の間に繋がりが生まれ、従来の人間関係のラベリングが外れたから」であると考える。

筆者も例外なく、種明かしされるまでは登場人物をラベリングされた一つの側面からでのみ理解しようとしてしまっていた。例えば、「アハハは港のことが好き」であるし「足取はしゃべることができない」ことが前提だと思い込んでいた。

しかし実際には、アハハは"自分の中での静男のイメージを纏った"港のことが好きだったし、足取は"言葉を発する機会を身軽に奪われて"しゃべることができなかった。港の失踪や箒・淡路との関わりによってこれらの見えないラベリングに気付くことができた登場人物は、それらを外して自分の本心に気が付いていくのである。

模造街は、人々がしがらみを抱えている現実世界を投影したもう一つの小さな世界である。それを"異形の世界"と捉えるか"もう一つの現実"と捉えるかで、この劇の見え方は大きく変わってくるのではないかと感じる。

「言葉」と「居場所」

三浦さんの紡ぐ「言葉」がすごく大好きなので、その言葉を今日から皆さんにしっかりと届けられるように頑張りたいなと思います。 ─高城れに

絶賛上映中『最高の家出』初日会見&舞台映像ダイジェスト

高城れにさんのこの言葉は、舞台を見終わった我々には非常に示唆に富んだ発言に聞こえる。なぜなら、『最高の家出』の一つの主題は「言葉」であるからだ。

模造街はなぜ作られたのか?珠子は「何を言って欲しかった」のか?果たしてあの時本当の気持ち・思いが伝えられていたらどれほど良かったのか??

「おかえり」「俺はシャイじゃない」「寝ている姿を見られるのが嫌だった」2つの現実世界で交錯していたしがらみは、登場人物が本心を伝えることで解けていった。

それを最も象徴するキャラは足取である。
セリフだけを話すことができる足取は、自らの言葉を身軽に伝えることはできなかった。自らの話したいことを紙とペンを使って「セリフ」にするという手段を知った。言葉を伝える手段を知って言葉を発した足取は、身軽と新しい関係を築いていくのである。

「言葉が届かない」登場人物が「言葉を伝える手段を知る」。これが、この劇を貫く変化の潮流である。

箒は"もなか"をはじめとした自らの世界を内に秘め押し殺すことで、淡路との結婚生活に順応しようとした。「自分の言葉が届かない」ことで「自分が透明になっていくのを感じた」という箒は、模造街の架空の人間関係で作り上げられた結婚式のスピーチで、淡路の本心を知ることとなる。箒からの一方通行であったコミュニケーションが、模造街の虚構の中で成立したのである。これによって、箒は自らの心を整理することができたのである。

これと対照させられるのが、アハハと港の関係性である。アハハは言葉を知っているが、外界に出たことがないことから「概念」を知らない。トトロのエピソードも、劇中劇での台詞回しや赤ちゃんの扱いが異様であることも、アハハが言葉の中身を知らないことを示していると考えられる。劇中でアハハは港にずっと想いを寄せていたが、最後には港との婚約を断り箒の元へと向かう。アハハは箒や淡路との関わりで現実世界を知ったことにより、港が「一方的に港自身の言葉を押し付けていたこと」を知ったのではないだろうか。概念を知って自我を確立させたアハハは、"言葉を交わすこと"の本質を知ったのであろうと考える。

そして最後に対照させられるのは、珠子と静男の関係性である。珠子は夜海原を出奔して彷徨ううちに、静男も街も何もかも全てを失ってしまった。帰りたいという一方通行な思いだけを募らせ、「ただいま」「おかえり」という言葉を交わすことができずに延々と囚われ続けた。模造街の劇が延々と繰り返されたのも、静男の「おかえり」を聞くことができなかったことによるものだろうかとすら考える。
最後に静男を演じる箒が「珠子」に「おかえり」を言うことで劇は幕を閉じる。それは、「おかえり」という言葉を聞いて居場所を得ることが珠子の悲願であったからであろう。

無限ループから抜け出す"鍵"は、「言葉」と「居場所」であったのだと考える。

アハハ=もなか説

アハハともなかはリンクしている。もっと言えば、[箒/淡路]と[珠子/静男]もリンクしている。私はそう感じた。 

その根拠の一つが、もなかの服である。箒が淡路の店で購入したもなかの服は赤いワンピースであった。これはアハハが着ている服と一致する。
さらには、淡路の店のクローゼットと劇場のクローゼットは同じものである。

さらに描写に迫ってみよう。淡路との回想シーンから、もなかは箒の家で狭い籠の中で生活していることが読み取れる。そして、アハハは狭い脱出マジックの籠に閉じ込められていた。

明らかに、もなかとアハハは重ね合わされているのである。それはすなわち、その"親"である[箒/淡路]と[珠子/静男]が重ね合わされていることも意味する。

珠子と静男が、箒と淡路と全く同じ会話をするシーンがある。"アレクサに聞いているのかと思った"猫の話である。背景的に、珠子と静男の時代にアレクサが存在することは考えにくい。この違和感は、この作品の世界観に対し後述する模造街への一つの仮説を提唱することができると考えられる。

劇後半で、箒がもなかを解放し自由にさせることを示唆する描写がある。もなか=アハハであったとするのであれば、これはアハハが珠子のしがらみ(=劇場)から解放されたことと連動していると考えられる。それは、アハハが脱出マジックの籠から抜け出す瞬間にも表現されている。

「私の苦しみは、あなたの苦しみじゃない。私の喜びは、あなたの喜びじゃない。」

箒がもなかに言ったセリフは、アハハの珠子の世界(=劇場)との決別のセリフであると考える。私はこのセリフが大好きで、自分の価値観や心を大切にしようと思えた言葉である。

模造街の正体とは?

では、これほどまでに私たちを不思議な世界観に誘った「模造街」の正体は何だろうか?

私はこれを、一つの「異世界」「心象世界」であると考える。「パラレルワールド」とはまた文脈が異なる、箒の「内面の世界」である。

模造街が現実か架空か、と議論を重ねるのは野暮ではあるが、珠子の迷い込んだ世界がある種の「異世界」の類ではないかと考えている。
珠子はいわゆる「神隠し」にあったのではないかということが、私の考察である。

ここで劇中に登場したある地名を挙げる。
「遠野」。珠子が旅行計画を立てていた土地である。不思議な民話の聖地として知られる土地である。

遠野(岩手県)に古くから伝わる物語を集めた本「遠野物語」には、以下の記述がある。

遠野町の某という若い女が、夫と夫婦喧嘩をして、夕方門辺に出てあちこちを眺めていたが、そのままいなくなった。神隠しに遭ったのだといわれていたが、その後ある男が千磐(せんばん)が岳へ草刈りに行くと、大岩の間からぼろぼろになった著物(着物)に木の葉を綴り合わせたものを著た、山姥のような婆様が出て来たのに行き逢った。

遠野物語拾遺・第109段

よく見るとそれは先年いなくなった厩別家の女房だったので、立ち寄って言葉を掛け、話をした。その話に、あの時自分は山男に攫(さら)われて来てここに棲んでいる。夫はいたって気の優しい親切な男だが、きわめて嫉妬深いので、そればかりが苦の種である。

遠野物語拾遺・第110段

いかがだろうか。「夫と夫婦喧嘩をして」「いなくなった」点であったり「夕方」であったり、箒や珠子の失踪と共通点が非常に多いように感じられないだろうか。はたまた「夫が嫉妬深い」点は箒に似ている。さらに言えば、110段にある「山男に攫われて」と言う記述をよく読むと、劇場に人間を監禁していた支配人の夏太郎の行動とよく似ていないだろうか。

珠子が姿をくらませて劇場へ閉じこもった現象が神隠しだったとしたら、箒もまた神隠しにあっていたのである。劇場が異世界か現実世界かという問いは答えが出ないものであるが、箒と珠子は不思議な縁で結ばれた存在であることは確かなのである。

そしてこの「遠野」は、私たちにさらなるメッセージを与えている。

夜海原商店街は一夜にして全てなくなってしまった。遠野に旅行に行くことができる夜海原は東北地方であろう。では商店街が無くなった原因は何か。
震災・津波であろう。

劇の最後に箒たちが訪れた夜海原は海沿いの更地であった。しかし箒はそこに当時の人々の息吹を確かに感じた。人々の居場所は完全に消し去ることはできないし、居場所は人が作ることができる。そんな強いメッセージを感じるラストシーンでもあった。

別の視点では、SEに空襲のような音があったことも印象的であった。時代背景が戦後のようであることも、戦災の跡を感じさせるように感じる。

震災や戦災。居場所が簡単に消失してしまう可能性がある世界であるからこそ、私たちは「言葉」を大切にし、大切な人にそれを伝えることが必要なのであろうと感じる劇であった。
「失敗した家出」こそが、成功した家出なのである。

最後に

『最高の家出』を本当に楽しく拝見させていただきました。見ていて学ぶものが非常に多かった劇でした。。

素晴らしい脚本を描いてくださった三浦直之さん、そして箒として言葉や居場所の大切さを伝えてくれた我らが推し・高城れにさん、キャストの皆様、その他BGMや舞台装置の皆様など本当に素敵な演劇をありがとうございました!!

"言葉"を大切に、生きていきたいと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?