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自己の興亡

すべてのことを二極化することはできるかもしれない。

そう YES or NO。

ある人はそんなことはできないだとうと言うだろう。

でも、YESとNOの中間になるものも、ある仮定を置くことによって

(ある要素を加えることによって)きっと2つに分けることはできる。

これはすべてのものが0 or 1にすることができるということだ。

そうすれば、すべてのものが機械的に判断可能になるいう可能性を見出したことになる。

これは、アシモフが未来史を描いたファウンデーションシリーズの中でセルダンが人類の未来を数学的手法で予測した「心理歴史学」にあたるものではないかと考えてしてしまう。

SFは時として我々を未来に導いてくれていることは確かなことだ。

完成のイメージがそこにあり、科学者たちはその影響を受け、テクノロジーをそのイメージに注ぎ込む。

創造(想像かもしれな何か)とは皮肉にも人々をそこに導いているのである。

それは他人の思いからだけではなく、自分自身も自らの創造(想像)に囚われることを意味する。

気持ちがモヤモヤするときは、自らの心の中もしくは頭の片隅で自分自身によって過去の嫌なことやこれからの不安を思い描いている。

その創造(想像)が自分をマイナス方向へと導いていく。

それとは逆を考えた場合、欲望丸出しの気持ちのよいことを頭に思い描いているということは想像に難くない。

これはすでに二極化現象を自らの心の中もしくは頭の片隅に作り出してしまっているのだ。

そして、それは行動にも表れることになる。

ただこの心理的現象も50近くになった私は、ある程度の心理の二極化を理解していると勘違いしていた。

経験や、周りの人々からの思考を理解し、その二極化要素を自分の中に取り込んでいると勘違いしていた。

親父が倒れ、母は泣き崩れ、姉は戸惑い、周りが一切見えなくなるという現象にブチ当たるまでは。

過去に起きた大きな事前災害は身近な人に影響はあったにせよ、命に係ることがなかった。

生と死の二極化要素を私は理解していないことに気づかされたのである。

生という中にも二極化が、もちろん死の中にも同じものが存在するだろう。だが、その二極化要素になる仮定を私は想像(創造)することはできなかった。

ごく当たり前のように、生と死とは紙一重の間に存在するものだという思い込みが、その想像を阻害していた。

それは生と死を受け入れられない状況になったことを意味した。

生と死とは一対であり、それとは別の何かと二極化をなしているのかもしれない。

それが受け入れない心理となって表れていた。

そう二極化とはその1つの反対の意味になりえるものではないのだ。ただ二極化としてそこに存在する。

それはAとBという言葉の定義と似ているかもしれない。別のものなのだきっと。

今更ながら、自己の心理の未熟さと、モヤモヤの気持ちとが二極化している気づいてしまった。

モヤモヤを払拭させるつもりで、自分が好きな場所に行っても気持ちが晴れない理由がようやく掴めた日曜の夜であった。

「おやすみ」という二極化の対はきっと「よい夢を」と言ってくれる人を指すのだろう。

では、おやすみなさい。

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