限界自営業がやっとシン・エヴァンゲリオンを見た。

シン・エヴァンゲリオン


 ネタバレはあります。

















 公開から10日も立ってから書いた文章である。
 社会人は仕事の付き合いもあり、序破Qと初日に行った人間がこの体たらくになるほどには大人になったのだ。
 Twitterや各種SNSでの友人、または関連したところから露骨なネタバレを食らうこともなく、(漏れ出るナニカを感じつつも)映画をほぼフラットな状態で見れた稀有な経験に友人、及び各種SNSでの鑑賞者の対応には感謝します。知っている誰かと知らない誰か達、見知らぬ私のためにありがとうございます。

 公開から程よく時間も経っているので私のこのレビューは初期衝動のまま書かれた優れた人たちほどは読まれないのでプライベートな友人ともしかしたら出会ったことのない他人がそれなりに興味を持ってくれれば良いと思った程度のメモのようなものであり怪文書の一つでしかない。

 もう一度、見に行くことは決めているが少しだけ、冷めている。
 それがこの映画なのだ。

 率直に書くと毒が抜けたのである。
 腑抜けである。デトックスだ。
 もしこれがあと数年(Qから1〜2年)早ければかつてのニフティサーブや掲示板の書き込み、旧劇場版のサブリミナル的に見えた書き込みの夜に「庵野死ね」など狂ったように書いていた、と思う。
 時間は人を癒やし、傷口を気づけば優しく塞いでいるのだ。
 エヴァの感想を書くといえばたいそう気持ちの悪い怪文書をネットに上げるヤバい人の一人になることを覚悟していたがこれは解呪の話だった。
 友人が「お葬式か、卒業式」と言ったがお祝いの儀式でもあった。
 感想を書くにあたって心を落ち着かせるために人間らしく昼食を取り、少しの休憩を挟んでパンフレットをサラッと読み、当初はわかりきった庵野秀明という男がどのように創作に向かい、空虚な世界での己の好きなものを大して濾過もせずミックスジュースの予定が原型丸出しの材料に塩を撒いた程度のものが期待していた。
 庵野秀明はエヴァを旧シリーズのときに「ドキュメンタリーである」といった。
 彼の個人的な当時の恋愛や失敗談はネットにあふれているだろうし、一次資料であった各種書籍は熱心なオタクは知っていることであろう。
 90年代初頭の宮崎事件など含めオタクはもともと生きづらい生き物であったがよりそれを加速させた事件やオカルトブームや時代の後押しとして選ばれてしまったエヴァは本人が考えた以上の世界を現実に構築し、庵野秀明が自己の葛藤を投影した世界はオタクやサブカルの人間たちに優しく肯定してくれた。
 その迎合への拒絶と人生の失敗の爆発の表現としてめちゃくちゃにしてやった旧劇場版だというのは客観的に理解できることである。
 しかし当事それを見ていた小学生の私がそんなゴシップな話題を知る由もなく、「旧アニメのオマージュの塊のアニメのなんだかわからないが格好いいがたくさん詰まったアニメだぞ?」という程度の認識だった。
 旧劇場版に至ってはその後の私の価値観に多大な影響を与え続けています。
 その世界のことだけでは結局解けずゴシップ的ネタは書籍とネットで知っていくのです。
 ドキュメンタリーであるがゆえに表沙汰になった各種事件を振り返れば今回のエヴァの結末は想像ができていた。

 結婚、
 GAINAX離脱、
 自社起業、
 所信表明、
 東日本大震災、
 特撮博物館、
 巨神兵、
 Qの内容大幅改変、
 アニメ見本市、
 アオイホノオ
 シン・ゴジラ

 それぞれの事象でどのように変化したかいちいち書かずとも私より優秀なオタクがもう書き上げているしそれぞれが詳しいだろう。
 現在はクリエイターの人となりがそれなりに透けて見える時代です。
 宇多田ヒカルの母が死んだあとに発表された曲に注目が集まるように、
 マイケル・ジャクソンの死もTHIS IS ITとセットでエンタメ化したように、
 死んだ人間、生きている人間自体が作品と同期され評価されていく。
 過去の作家の文学的研究も結局彼らの思想遍歴、環境、時代姓が資料のバックボーンとしてあるように現代を生きて作品だけを純粋に評価できないことは多岐にわたります。
 他のアニメの巨匠と言われる富野由悠季や宮崎駿も素晴らしい作品群はあっても彼らがどのような経歴と思想を持ったかという赤裸々なプロフィールが合わさることにより「理解したつもり」になった軽薄な評価で消費されていきます。
 アニメに限らず各種業界はその人間を消費することに必死であり作品の時代姓と精神性は多くの人々にリアルタイムで解体されていきます。

 奇しくも自分は起業もしてそれなりに生きています(嫁はいませんが)

 ニートだったらキレていた。
 会社作って嫁ゲットしてやったぜ!(曲解)

 そこも今の庵野の気分にすこしだけ乗れた部分でもありなりたくもない部分だったのですが。

 SF的な考察も各種エヴァ亜種作品なども絡めて書こうと思った気力が削がれてしまった。
 ただ今回ご新規の設定ではありませんでしたか? など苦言をいいたいファンもいるでしょうけどそれぞれのアイテムに近しい、あるいは類似したものはエヴァンゲリオンアニマ、PSP及びPS2ゲーム新世紀エヴァンゲリオン2、初期企画書(Newtype100%)、貞本義行版エヴァ漫画最終巻など参照にした上で再考すると大体納得されるかと。
 庵野秀明及びカラーが関わっていた物自体で殆どは構成されており数字の違いや役割の違いはあっても大体のSFパズルは溶けます。
 Qの飛ばした時間を力技で今回、回想プラスαで解決したのはなかなかの構成だとは面白いと思います。

 書く点は多いのですが情報過多なのが庵野秀明の作品作りではあるのでそれらを小テーマで上げていけばポイントは多いのですが構築されていく物語は今回は非情にオーソドックスな英雄の物語のように各キャラクターの舞台消化はQより丁寧で舞台劇として非常に優れています。
 収束に向かっていく段階の踏み方は丁寧で丸く収まりました。
 その結果は各種ファンに物議を醸すのはわかりますけれど。
 素直に書くと劇場というパッケージで考えれば旧劇場版のようなどうしよもない話を期待した自分は常に存在していましたがそれでは「気持ち悪い」エヴァのままなので作品を閉じる形として非情にキレイでした。
 問題はそのキレイな世界は無理解なファンにはやはり旧劇場版と同じ程度のダメージは与えているでしょう。
 各キャラクターの物語はこの劇場版においてシンジによって昇華されていく最後は文字通り終わらせていく話です。
 お葬式です。

 だからといってカタルシスは少なかったけどね。

 悲しいかな、アクションは殆ど弐号機と8号機だった。
 これだけ落ち着いた醸造されたのならもう少し目新しいアクションがあるかと思ったが正直そこまでいかなかった。
 正直、破のアクションシーンまでは絶賛でしたがQのビットもどき搭載の13号機VS弐号機も富野ほどのケレン味もなく、巨大感の比較物が少ない場所でエヴァが戦っても微妙だったQの戦闘シーンからさらに後退している。
 旧劇場版旧TVシリーズを含めての終わりなのでこれでいいよ……と思った部分もあります。
 繰り返しの物語であっても同じカメラワーク、同じシーンのコピペのようなシーンはもっと少なめで良かった。
 冒頭からのアヤナミレイ(仮称)の崩壊はからくりサーカスのフランシーヌ人形を思わせた(なにせ声優が一緒だ。赤ん坊から学び成長していくところなどこれは参考にしているのではないかという邪推すらする。まあ友人島本和彦の盟友が藤田和日郎なわけですから……)。
 ジブリ的な描写はまあスタッフも師匠もね、ばっちりEDロールに鈴木さんの名前もあったし。
 アヤナミ的なもので奮起するのも第一話がモチーフであり今回の映画はずっと過去のものの繰り返しではあるけど徐々に進んでいる。
 Qが異常すぎただけで序破はきちんと進めていたので三歩進んで二歩下がるが成功した。
 旧劇場版を彷彿させるクライマックスはあえて手書きを捨てたのか作り物らしさをだすためなのか判断に悩む巨大綾波、首がないのは自我の損失した存在だからか、過去シリーズで取れたからか妄想する余地がある(Qから首のない……自我が消えたものはそのような描写ばかりだ)
 しかし本音を言えば旧劇場版資料か原画を再利用してもあの綾波はCGであってほしくはなかった。
 映像づくりのちぐはぐ感、舞台の演出としての特撮的ポリゴン表現はあの一部なら良かったけど巨大綾波のシーンは絵が浮きすぎだ。
 もしかしたらBDで修正されるかもしれないが去年公開予定なものを何度もリテイクしてこれなのだから修正は正直あまり期待できない。
 ただ後半妙に艶めかしい独特の作画の綾波やアスカは「何事だ?」と思ったのでアレはアレであり……やっぱねえわ。統一してくれ。
 あと昔やった原画で「これアニメで虚構だから」とか久しぶりにやられて驚いた。
 いや……あんたシン・ゴジラじゃぜってえそれやらないでしょ。シンウルトラマンでもウルトラマンの中からスーツアクターはみ出ささないでしょ。流石にそれ若干の感動すら冷める。
 収束した因縁など吹き飛ぶ思い。
 虚構の世界のあと発見した安野モヨコであるのだろう。
 挿入歌のVOYGERはもともと好きな曲だったのですが(過去の映画関係なしに)高遠るいがエヴァフォロワー漫画としてウテナとエヴァと溢れんばかりの特撮愛に満ち満ちたあのミカるんXのクライマックスを飾った曲で「おいおい、庵野あの漫画たしか読んでなかったか? 1巻の帯の推薦文書いてただろ!」と思った。さよならジュピターの引用というより熱狂的エヴァファンの作品からのパロディでもあったと気づいた識者は果たしてどれだけいただろうか……
 過去の名作オマージュは多々あるが序のときの発光する初号機は仮面ライダー555であり、破の綾波救出シーンはウルトラマンネクサスでもある。
 庵野秀明という人間の映像の編集のキレはあっても丸くなった。良くも悪くもやや凡庸に。
 旧劇場版のシーンやTVの都市の戦闘シーンとどうしても比較してしまう。
 あちらもオマージュ元としてはイデオンや戦争映画なんだが作品としての狂気、決まりきった英雄の法則なんか無視した何もかもぶっ壊したという規格外のトチった脳みそが生み出した芸術品であった。
 吸収した作品の濾過をあえてしなかったのだ。
 冒頭に書いたように素材に調味料を降っただけなシーンが多いのが残念だった。

 そしてあまりにも説明セリフと状況での処理が多く庵野秀明が自分の膀胱の活動限界をもとに作品を作ったのかもしれないというファンに対して真摯な作品作りをしたのかもしれないがあと30分〜1時間は言い訳ryもといそれぞれのちゃんとしたキャラへの対応と嘘でももうワンアクション大きなスペクタルシーンか、初号機が活動する場面は必要だった。エンターテイメントとしての絵面の面白さが旧劇場版……ではなくとも序、破よりは下である。
 じっくりやった農業シーン、あれ10分くらい短縮するっていうのも手だったかもだぞ!?(まあ丁寧にやることで泣ける演出は加速するのですが意味深なアスカの言葉とかわかりやすさをもっとカットして理不尽にしたほうが旧劇とか過去庵野的になりそうだよね)
 そこは貞本義行版かアニマでも見てろよとか暴言が飛びそうだがトップをねらえなど過去の庵野監督ができていたことが今できていないことが不甲斐なく感じるのがファンである。
 シンウルトラマンはシン・ゴジラ以上に庵野個人の呪縛が解き放たれた作品にはなるのでしょうが期待は半々です(みるけど)
 マリという異物は個人の世界で構築されたエヴァを破壊し、BEATLESでのオノヨーコなんて古臭い表現は使いたくないけどそれはそれでいいじゃん。フィルムのエンタメとしての出来は60点、新シリーズ全体としては80点の及第点、庵野秀明のプライベート暴露フィルムとして100点でいいじゃないか……
 というのが個人の結論。

 新シリーズ全体を通してのアニメとして新しいことに挑戦したけど最後は挑戦しすぎて空回りした部分があるのだなあ。
 庵野のバックボーンと旧シリーズと出来れば周辺作品もよろしく! ナディアもね♡という部分は抜きに新劇場版シリーズだけで世界構築は出来ていないし結局旧シリーズからの現状は想像してね♡ なんだよね。
 ただ監督は辛いこと多すぎたので大きな株のフィルムでも見てから生暖かく見守るのが今回の内容だったわけでして。

 そんなもん映画だけ見ているやつからしたら知るか! という状況も察するので熱狂的庵野ファンだった人たちと作品として好きだった人たちの隔絶は起きてるだろう。
 なにせ俺が熱狂的庵野ファンかつ作品のファンでもあったので脳内は二項論が同時対立で走る状態での劇場鑑賞であった。

 結局の所、最初エヴァに惚れたのは当時好きだった紫色を扱ったヒーローはジャンパーソン以外存在せず、ガンダムやサンライズ系にないデザインと配色に見惚れたところから入り込み、あのデザインは今も大好きである。
 山下いくとがデザインしたボツ設定を再利用したりSF的メカデザインが輝いていたエヴァが好きだった。
 その点では「それをなすもの」と「エヴァンゲリオンANIMA」は永久保存版である。


 卒業だとか葬式とか言われるけど個人的には好きだったロックバンドの最後のライブだった。
 再考の演奏と少しだけ寂しくなった最後のアルバムの出来に微妙な表情をしつつ美しい思い出と楽しい記憶と辛いとき人生に寄り添ってくれてありがとう、ソロになってからでも応援はするからね。ってなもんだ。

 大好きだったよ、エヴァンゲリオン。
 ありがとう
 さようなら、すべてのエヴァンゲリオン

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