旧ブログからの転載 エヴァ序 当時の感想
世の中の、ひとつの価値観
時に、西暦2006年 庵野監督の声明文が発表される。
そのときの自分の心境は実際のところ、落胆に満ちていた。
偽りなき私の本音だ。
2008年6月27日の破の公開からやがて一ヶ月が過ぎ、二ヶ月目が来ようとしているなか、なぜこんな文章を書いているのか。
それはあのときの落胆からいまに至る気持ちの整理でもある。
現在、ありとあらゆるところで絶賛され、優れたレビューを書き綴ったサイトがたくさんある。
【映画版ヱヴァ破考察 その壱】僕たちが見たかった「理想のヱヴァ」とは?~心の問題から解き放たれた時、「世界の謎」がその姿を現す
【映画版エヴァ破考察 その弐】 庵野秀明は、やっぱり宮崎駿の正統なる後継者か!?~「意味」と「強度」を操るエンターテイメントの魔術師 物語三昧~できればより深く物語を楽しむために
■[cinelink]「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」著名人感想リンク たまとわ (Living in castles a bit at a time)
深町秋生のベテラン日記2009-07-11 天使映画というジャンル。最強の暴力映画「ヱヴァンゲリヲン破」
もっとも絶賛とは、真逆のレビューものもある。
私自身の感想としては、いまだに複雑である。
正直、破は愛せる作品である。ゆえに複雑なのだ。
今回の映画は、気持ちのいい映画だ。
旧劇場版の、気持ち悪いとはまったく違う突き抜けた作品だ。
ならば旧劇場版を見捨てて両手をあげて新劇場版に媚を売ればいいのか、といえば大きな間違いだと私は思う。
私にとって旧劇場版を見ているからこそ新劇場版に惚れていくのだ。
これも多くの人が語りつくした感がある言葉かもしれない。
旧劇場版とはなんだったのか
旧劇場版は思春期にさしかかった私にとって非常に難解に思えた映画だった。
旧劇場版のDEATHの中途半端な、だけどエヴァらしい要素を残した総集編のパッチワーク&新規作画は序盤は楽しめたが正直後半は苦痛も伴っていた。それでもVHSで見返し、ポーズボタンを押しながら中途のサブリミナル的な文字やキャラクターの機微、聞き取りづらい音声に至るまで念入りに聞いた。
夏の Air/まごころを君に は私の中では作品としてのシナリオの流れは旧TVシリーズの焼き直しでありながらも新たな形と答えを示したものだった。
私にとってエヴァとは人との距離を知り、人との距離を図り、相手との距離を保つためのドラマだった。(ヤマアラシのジレンマというやつだ)
そのころは製作者の苦労も知らずに、馬鹿正直に作品世界で起きた出来事をなぜああなったのか、どうして気持ち悪いで終わるのかを、必死に考えて自分なりの結論や答えを出したつもりだった。
気づけばシンジ君と同い年になった自分は残ったエヴァを見て、劇場版の圧倒的な展開と作画とTV版を払拭するアクションの25話に驚き、26話で間違いなく文学系統に転がり込む土台が出来上がってしまった。
各キャラクターに対しての疑問、展開への理解、設定に対しての解答、自分はどうして好きになったのか、文字通り見終わってからはシンジ君のようにエヴァに対して悩み続けた。
キャラクターの精神分析の本からインチキくさい本、まちがって買った801本(とはいっても庵野監督のインタビュー、著名BL含むというかメイン作家からの寄稿本)、ありとあらゆる情報があるものを手に入れていった。
ムックもアンソロジーも謎本も、少ない小遣いで買ったし、自分なりの解釈も考え、それの答えになったようなつもりで稚拙な小説のようなものまで書き上げた。
どれもこれも納得することはなく、どの本の作品解説も自分にとっての納得を作り上げる素材になりがたいものだった。
元来、エヴァとはそういうものだったのかもしれない。と思うことが当時の自分にとっての答えだったし、そこでの思考連鎖の遊びも楽しかった。それがシンジのしていたような音楽による現実逃避に近いものだったのかもしれないが、あのときの自分にとってエヴァはそれだけ大きいものだったし、頭の中はいつもそれが渦を巻いていた。
問題は私にエヴァを離せる友人が当時いなかったこと、そして分かったツモリでいたことだろう。
情報交換する相手もなくネットもあまり普及していない時代なのでこれは純粋なオタク的行為だと私は思う(自分ひとりの世界で解釈し、研究していく)。
学校では数人見ていた人がいたが本質的に「ああ、理解しあえないだろうなあ」なんて思い、現在に至るまでリアルな世界で深い話し合いを出来る相手というのはあまりいない。(うわっつらとはいわないが、ドロンとした精神世界や他の作品からの引用、宗教的解釈を含めても、だ)
そんな私の劇場版に対する答えは映画公開時聴きもしなかったラジオに今日の批評の基礎となっている番組があってこそであった。
竹熊健太郎×東浩紀「オタクのゴタク エヴァ・もののけ姫」1997年8月16日 ニコニコ動画 (アニメ史的にも価値があるので聴き応えがある)
この番組での劇場版論はすくなくともガイナックス、当時の監督の思想をうかがい知る上で非常に価値のあるものだと私は思う。
当時の世相を反映した上でのもののけ姫、エヴァの作品に対する作品をただ見るだけでは伝わらないことを伝えてくれた、。
当時私はエヴァを神聖視していたし、作品世界以外のガイナックスなどの情報をすべてシャットダウンしていた狭い世界で考えていた。良くも悪くもありたいていのアニメ雑誌的な解釈とスタッフの流れを考えずその世界に見事どっぷり入り込んでいたがゆえに見えなかった部分があまりに多く、視野は自分の内世界に答えを求めずにはいられなかった。
エヴァのヒントは監督の発言や私自身が触れてきた当時の私自身が持つおたく的素養の中にこそあった。
それに気づいたのはそれから三年もたった、私の家に光通信がきた、エヴァブームが廃れ始めたころだった。
エヴァブーム以後の小規模な、だけど見逃せない事情
エヴァブームが過ぎたころ当時の庵野監督の心境を知った。とはいってもインタビューや記事からの推測でしかない。
そこで彼の内面が作品に投影されていて、しかもそれからしばらくして他の庵野監督作品(ナディア、トップをねらえ、彼氏彼女の事情)を見ていたからこそ娯楽作品を作り続けた監督の精神破綻があの作品のカルト的熱狂を支えた一面、というのは語りつくされた評論だろう。
GAINAXはもともと学生の集まりの同人的素養のあるクリエイター集団であることを本来は念頭においた上で観るのと、作品世界のみで観るのは大きな違いがあるだろう。
そんな私にとってエヴァブーム終焉後の数々の公式同人的な作品、ゲームはエヴァで儲けているようにしか見えない汚い資本に感じたのも事実だ。
当時のGAINAXの台所事情も知らずにエヴァを汚すなと考えている自分がそこにはいた。
それが不潔と思えたのは思春期だった自分のエヴァに対する思いが汚されていくように思えたからだ。
当時はエヴァを揶揄する連中に対してコンプレックス的な憎しみに似た感情の源泉が、エヴァに共感していた自分を馬鹿にされたと思ったからだ。
唯一その中で私が心開いた作品は貞本エヴァとPS2新世紀エヴァンゲリオン2だった。PS2版は庵野監督がAIの設定を担当していると知り、TV内容もまさに、エヴァの、作品世界の謎についてのひとつの回答を教えてくれるものだった。
貞本エヴァも主要スタッフが己の解釈でつむいでいく作品だからこその見ごたえもある。
私の中でのエヴァ熱は冷え込みながらも燻り、フラストレーションを溜め込む時間だけが過ぎていった。
庵野監督がエヴァ製作のヒントになったものは実は私自身が元から好きだったものが多かった。
それがTVエヴァを見続けた作品の面白さの秘訣なのかもしれない。
大学に入ってからはSF作品が大好きでハリウッドの古典から現在、アニメも同じように見ていた。それは特撮作品に対しても同じでウルトラマンを再度見直したりもした。
そして見つかっていくのは庵野監督はそんな作品群をモチーフにエヴァを組み立てていったこと。
私自身は特撮が大好きであり、初代ウルトラマン、セブンを幼いころから何度も見直していた口であり、庵野さんの映像センスが特撮的であったところも好きになった要因としてでかいといまさらながら思う。エヴァの巨大感と町の破壊、カメラワークはまさにそれだろう。他のアニメではなかった手法をふんだんに取り入れていたことも含めてだ。
大学時代にしていたらき☆すたや他のパロディアニメ群と違い、オマージュとしてパクリなどではなく純粋に作品への愛として作り上げたGAINAX作品がよりいとおしく思えるようになった。グレンラガンなどの外連味あるアクションはいままでのアニメの表現技法のオンパレードだった。
GAINAXの経済事情というのも情報が手に入るネット社会の現代だからこそエヴァで儲けるしかなかった側面も理解した。
ナディア以降の苦しい経済事情があったにもかかわらず名作を連発したGAINAXは本当にすばらしいアニメ会社だと思う。
[エヴァ]あの娘、エヴァンゲリオンの頃にインターネットがあったらどんな顔するだろう。たまごまごごはん
自分と同じようにエヴァの世界に悩み、苦しんでいた人がここにもいて、少しだけ自分にやさしく慣れた気持ちになれたのはネット社会のありがたいことだと、思える自分になれたこともエヴァが私にくれたプレゼントだと思う。
心がポカポカするのは自分が成長した証なのかもしれない。
新劇場版発言への忌避
器量が狭いやつと思われても仕方がないのかもしれない。
だけど自分にとってエヴァは精神の侵してはいけない聖域のような部分で今もある。
だからこそ、新劇場版の発表時の発言に対して「おまえは何を言っているんだ」
と怒りすら覚えた。
所詮、パチンコで儲けた金だろう、ネタがとうとう尽きたか、キューティーハニーのアニメもカレカノもあなたの作品はエヴァ以降も確実に面白かったのに昔の栄光にすがるほどのものなのか、原作ありきでオリジナルを作ることも出来なくなったチキン野郎め、あのときの人々の気持ちをまさに裏切るような行為に感じられた。そこまで憤る自分がそれほどまでにエヴァを愛しているとも同時に感じた。
旧劇場版であの答えを出し切り、あれほどまでに狂った愛おしい作品、皮肉に満ちた「まごころを、君に」を作り上げての発言だ。
「あんたに殺されるなんてまっぴらごめんよ」→「気持ち悪い」にに変更したお前がいう言葉なのか!
賛否両論の旧劇場版の鬱屈したストレスが加速度的にたまり、最後にどこか遠いところまで放物線を描いた旧劇場版の足跡を走り続けて見当違いかもしれない答えを求めた私を馬鹿にしているのか。
宇多田ヒカルは好きだし、彼女がエヴァのファンだと知っていたが、そんな売名好意的なメジャーな歌手をひっぱりだしてまで話題性を作る価値があるのだろうかと両方のファンである私が要らぬ邪推まで抱くものだった。
しかもあの丁寧な中での挑発的な文章は私の中に火をつけるには十分な油だったし、燻っていた煙は炎になった。
良くも悪くも舐めきった気持ちで友人とエヴァ序を見に行った。
そして裏切られたのだ、しかも傷つけられることもなく。
序によっての破壊
旧劇場版をリアルタイムで見れなかった私は序を公開初日朝一でいった。
序は、序盤の作画変更、リビルドに目を奪われた。
音楽のアレンジも作画、演出の変更も気に食わない部分や好感が持てる部分があった。
旧作画をベースにしているとはいえ、第六話までの作画のばらつきをいまの貞本エヴァを参考したフォーマットに仕上げ、エヴァも当初の予定の配色に仕上げたことはマニアを興奮させるものだった。
一見すると前回と同じシーンでも細かく手が加えられ、デジタル彩色、細かい挙動の追加、エフェクトの多重追加、爆発シーンの派手さが増したり一部フィルム速度を上げて(逆もあり)印象的になっていた。
武器も庵野テイストではなく山下いくと中心のデザインラインで変化を見せてもらった。
監督の意見で現場で変更になったプログレシッブナイフまでアレンジされていたことが驚きだった。
あえて現実のものに近いラインですませ、暴力的にしたあのシーンの少年のやばさをわざわざ変えたことに驚いた。
また演出面に関してもあまり深く言及されていないが、序盤の第四使徒戦が旧TVでは初代ウルトラマンのグリーンモンスやバルタン星人の戦いがフォーマットだったのに対し、仮面ライダー555の夜間シーンのような効果は安野モヨコの監督不行届を読んでいるものにとってはにやりとせざるを得ないものだった。エヴァの蛍光カラーが夜の闇に淡く輝くのは予告編どおりだけどナイトシーンで演出で文字通り光るものだった。
前半は細かな変化と演出の変化を楽しむものであり、若干退屈さえ覚えたものだった。もっとも十回以上見返してる上にシナリオ集、漫画版、サントラを聞き込んでいるから脳内に出来上がったフォーマットから外れる箇所が少ないためというのもあっただろう。
脳で全話を自動再生するくらいエヴァを見た俺が感動したのは見たことあるシーンでも台詞を変えて状況とBGMを変えれば別物になったということ。
ただ、新規BGMが流れたときは最初違和感を覚えたけど後々は慣れてきました。というよりサントラ全部買って耳に穴あくほど聞いてい私が悪い。もっと浅いエヴァファンならこんな違和感ないんだろうな、と思った。
第三新東京市は以前と違い3Dを一部使用し、細かい描写が徹底して書き込まれており、武装都市というイメージが原作以上。どのシーンも背景がこだわりにこだわっている。
帰ってきたウルトラマンのときから監督は都市にキャラクター性を持たせようとしていたのが新作でもいかんなく発揮された好例だと思う。3Dモデリングに実線のデータを書き足した人は他にはいないのではないだろうか。アニメ的自然さと都市の存在感をブラッシュアップさせる3Dをアニメに使う新たな手法の一つだ。
加えて、建設途中の場所が不完全さを現したのがリアリティをましてよい。
初代ガンダムで富野さんが徹底して描いたコロニー生活や宇宙空間での生活みたいな描写に近いものを感じた。
そんなことを感じながら前半を消化していて後半になると俯瞰的に評論じみた自分の思考が壊れた。
前TVシリーズヤシマ作戦がクライマックスなのですが、全体的にシナリオが改変されていて脳裏にはスローテンポなDeath&Rebirthとか初期は思っていた自分を握りつぶしたくなる気持ちになった。
良くも悪くもシナリオは見ていて顔が真っ赤になるほど恥ずかしくなった。
エンターテイメントを意識して作られていることが序の中盤を過ぎて、否、後半になってこそ感じられる。
シンジの精神が丁寧に描かれ、感情移入しやすい。同時に、ミサトも以前は視聴者と謎を追う立場であったのがシンジを導く母親的性格を掘り下げられている。初期のエヴァは庵野さんの過去インタビューで語っていた、人付き合いが苦手なシンジとミサトの物語的な部分が出ていたのですが、今回はそれが特に強調されていた。
前作の大人のふりをした感情的な29歳連中や他の人まで成長している。
本当に、大人になったと思える。監督の結婚の影響はでかいと思う。
みんなTVより一歩互いにやさしくなっていることがこの物語を一番破壊する構成要素だ。
TVシリーズよりさらに人間関係が互いに近くに感じるのは一歩のやさしさが前作を知っているから余計にそう感じているのかもしれない。
後半の第六使徒戦はこのためだけに作られたといった趣のある演出映像、脚本演技、すべてが旧作を超越し、前に進んだと思える。
不器用に赤ん坊のように這いずりポジトロンライフルを構え、決意を固めるシンジの前進はこの映画を観に来た自分が前向きに不器用に前進してきた姿に姿を投影して旧劇場版の塞がりっぱなしだったシンジが自分の意思で周囲に流されながらも確かに少しずつ逆らいながらこそ進めたことが最高の感動だと思う。
後半は理解を超えた感情の世界があった。旧劇場版からの流れはこの感動のためであったと錯覚さえするほどだった。
第六使徒戦からの大きな物語とシンジの変化は次の展開を期待せざるを得ないものだった。
同時に、この変化したシンジにたいしてかつての悩んだ自分が憎しみを抱くほどの存在になりつつあった。
破の価値は
興奮と疑念と怒りと喜びがない交ぜになった自分はスタッフロールを観ながら宇多田の曲がこれほどまでに合うものなのかと思いながら眺めていた。
そして静寂を壊す「次回予告」
あの面白そうな次回予告の詰め合わせ的な映像が、序の価値だといわんばかりのインパクトは度肝を抜く出来だった。
三石琴乃の軽快な声でありながらも緊張感を伴い、魅力を濃縮した次回予告はまさにTVのワクワクした感情をフラッシュバックさせてくれるには十分なものだった。
新型エヴァ、新キャラの黒髪の眼鏡っ子(マリ)そして夕日をバックに歩く三号機……正体の分からない映像の数々
序が前半良くも悪くもなめてかかった出来だったのに後半の豹変振りと次回予告は不安と期待をない交ぜにした感情を十年と少し前の自分に与えてくれた。
破の公開が近づくにつれて不安と期待が大きくなった。
そしてエヴァの劇場版はパチンコはろくに絡まず、庵野監督のエヴァで稼いだお金をほとんど使った個人出資で株式会社カラーを作ったと知ったとき、彼に抱いていた無礼な感情を持つ自分に対して軽蔑を感じた。
電通や監視的立場にあるようものを持たず、個人の力を中心にやりたいことをやろうとする精神に敬意を払いたくなった。
監督に謝罪を、この作品を作り上げてくれたことに、見せてくれたことに感謝したくなった。
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