主題と変奏

主題と変奏

というカテゴリーを考える中で、「創造性」をキーワードにこんなことを考えていた。

変奏を行うには、まず、自作であれ他作であれ与えられた楽曲の分析を行う必要がある。元になっている楽曲の、旋律、和音、リズム、モード…その楽曲に内在している考えられうる限りの要素を抽出・分析しその要素をもとにしてre-composeすることが主題(theme)に対する変奏(variation)だと言うことができるのではないか。

更に、ある楽曲Xがa,b,cという要素を含有している場合を想定すると集合論的表記を用いれば

X={a,b,c}

という表記になるが、a,b,cそれぞれの要素が更に
a={a1,a2,a3...}
b={b1,b2,b3...}
c={c1,c2,c3...}

という集合を形成していた場合、集合a,b,cのどの要素をとって集合Xを形成しても

a∈X, b∈X, c∈X

であることに変わりはない。
そして、a,b,cのどの順序数に関しても0→∞の幅を有していると考えれば、集合a,b,cのそれぞれの要素を組み合わせの結果を数え上げるのは至難の業である。

この、集合a,b,cを構成する順序数が持つ0→∞の幅を「知識の限界値」とする。

実際の生活の中では、このように知識は無限大の幅を有しているということに気付きながらも、社会的な制約を受けざるを得ない。そして、ある特定の社会が形成する知の限界値を知ることができたとすれば、それよりも外側の知識を知ること。言い換えれば自分の知識の幅を無限大に近づけることが出来れば出来るほど、組み合わせの可能性の幅が広がるという意味において「創造性」に繋がり得る。

そして、この一般値の外側で組み合わせを生み出すことはフランス語の語感でいうところの

jeu(遊び)

と表現するのが適切であるような気がする。つまり、知識の幅を広げれば広げるほど、遊びの可能性は広がる。逆言すれば、その広がりを止めてしまえばそこがその人にとっての遊びの限界値である。

たまに、「高等教育は実生活には必要ない」と言われる時があるが、こう考えてみると実生活に必要と思われること以上の知識を蓄えることは何も実生活に実益をもたらすという信仰のようなものではなく、「遊び」のためにあるように思う。

実際にこれと同じ様な内容を投稿した経験もあるけれど、今回はそれに集合論的な論法も使ってみた。この用法が数学的に正しいかどうかが問題ではなく、これが自分にとって遊びの一種であるということだ。

主題と変奏、そしてその創造的可能性とは上記のような知識の拡張による「jeu 遊び」の可能性であるのではないか。

そう考えた場合、知識の幅を∞の方向へ拡張するために肝要なことはいずれかのバイアスによって形成される知識の閉域(知識の一般値)をいかに突破するのかということを考えることであり、それを可能にするのに必要なことは「遊びという意味で学び続けること」という至極当然な結論に至る。
しかし当たり前に思える一方で学び続けるとは意外に難しいし、更に言えば自分にとって外的な知識…言わばエイリアンに出会う機会も少なくなっているし、出会えたとしてもそれを自分に内化することも一筋縄ではいかないだろう。
そんな、自分にとってのエイリアンにも物怖じせず摂取して内化すること…これは心理学的な領域に入り込むかもしれないが、そういう性質を持った人がいるならば、それは短絡的に

「才能」

だと表現しても良いかもしれない。そしてそのような人は知識の一般値から見れば

「天才」

として映るのかもしれない。

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