想念の世界

ほぼ一か月ぶりのノート。私には珍しく締め切りのある事が多く、ついついツイッターに頼り切ってしまった。
この間、気づきがなかったわけではない。むしろ、ありすぎて言葉にまとめられずにいたのもノートに残せなかった理由の一つ。
ただ、今日はそれでもどうしても残しておきたいのでちぐはぐな言葉を覚悟して書き始める。今日は「想念」の話。

身体をずっと、探求してきた。身体の探求の楽しいところは考えたことがすぐに結果となって確かめられるところだ。
自分の考えどおりになっているかどうか。そこを求めて稽古をしてきた。

とにかく先に「知識」を教え込まれて大人になった。いつの間にか失敗を極度に恐れるようになってしまった。失敗するぐらいならやらない。それが私だった(笑)。

稽古を知って失敗を楽しめるようになった。失敗は恥ではなく、成果だとわかり、失敗を手掛かりに次を模索するようになった。そして、子供の頃に植え付けてしまった罪悪感や自己否定という手放したくて仕方がないものをありがたいものと思えるようにまでなってきた。
要らないなら捨てればいいじゃないか、と思うかもしれないが、要らないから捨てる選択をすれば、いつかまたそれが入ってきた時、嫌な気持ちになる。
しかし、それらが逆に自分の中に見たこともない世界を見せてくれる大切なカギになる事がわかったのだからありがたいとしか思えなくなる。

昔から「想像」が苦手だった。「想像」は「創造」とも関係している。新しいもの、自分が考えたものに自信を持てなかった。
しかし、世の中は「イメージ力」を求めていく時代。観念は現実化する、なんて言葉を知ってあこがれたものの、自分には出来ない、と落ち込むばかりだった。

しかし、あこがれたのは事実だ。出来なくてがっかりする経験を得てしまったがそのおかげで観念という世界がある事を知った。自分なりに観念を再定義できればいいだけの話だ。

観念は難しい。難しい、という観念が出来てしまっている。しかし、想像は常に生まれている。特に私はネガティブな想像が得意だという事にも気づくことが出来た(笑)。
ネガティブだろうが想像は想像。苦手な観念と得意な想像。組み合わせれば想念になる。言葉遊びのようだが、私にとっては想念はなんだかフラット。落ち着いて考えることができるみたいだ。

その想念を身体と結び付けて稽古をしてみた。

自分がいるこの場所。この場所から行動を起こし相手を制する。
相手はこちらの言いなりではない。こちらがやりたいことをしっかりと止めてくれる。敵を嫌う人は多いが研究の際には敵はありがたいものとなる。とにかくダメな動きは全部、止めてほしいと願っている。

相手の襟をつかむように手を出してみる。そのまま出してみれば当たり前だが払われる。力が特別強いわけではない。動きも速くないし、フェイントをかけているわけではない。止められるのは当たり前だ。

この時、私は相手の前にいる。そして、相手は手によって襟を守っている。手のガードが効いている。
その手のガードを抜けられないかと普通は思う。手を払ったり、気配を消してガードを抜けようとする。この当たり前がいけない。

相手の手の前に私はいる。ガードする手の前に私はいる限り、その手によって動きは防がれる。
この時、右肘を揺らす。すると、左肘も揺れる。無意識のうちに左肘が動きポジションが変わるのだ。
相手はこちらの何かをしようという気配には反応できるが無意識のうちに変化をする手には反応が難しいらしい。結果的に警戒されている左手は相手の内側へと潜り込むことになる。
こうなると襟をつかむのは難しくない。右手でガードしてくる手を抑えたならばなお簡単になる。すでに左手はガードを通り抜け胸の前へと進んでいるからだ。

この右手と左手の連動。目に見える肉体をみればそこに動きも感じられる。しかし、肉体が動かなくても、想像の世界でも左手はポジションを変えていたのだ。徐々に目に見える動きは消え始め、相手はこちらの左手の動きを見失いだす。速くない動きであっても襟まで手を伸ばす事ができる。

自分の身体はここにある。しかし、それを肉体に頼れば相手にも察知されてしまう。同じように見えるからだ。
しかし、想像の世界にある身体を移動させれば相手には悟られない。
言葉は簡単だ。感じたままを書いているが、きっと、読んでくれている人にはチンプンカンプンだと思う。
もう少し稽古を重ねてうまく言葉にできればいいのだが、目に見えない「想念」の世界がこんなにも身体的に感じられているのは初めての事。ちょっと時間がかかるかもしれない。

とにかく、今日が想念の世界に対しての一歩目だ。
身体を頼りに稽古をしているのだから道に迷う事はない。どう思われるだろう、と想像すればもうそこに想念の世界が生まれてくる。日常生活の中で作られる想念の世界は広大な世界だ。最初からその大きな世界を作ろうとすれば途中で挫折をする。まずは手を出す。それが私の稽古だ。

人に認められるほどの結果を出すには時間がかかるかもしれない。しかし、稽古をすればその時その時で成果がでる。何かを変えれば必ず結果は変わるからだ。
もし、想念、想像、観念の世界に興味がある方は一緒に研究しましょう。待っています。

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