夢と現実と縄跳び

長く稽古をしてきているので、身体を通して感じる世界が増えてきました。ただ、それを言葉にする機会はなかなかありません。
普段の稽古ではついつい「研究」をしすぎてしまいます。そして、その稽古において主役はいつも「身体」です。身体に見つかる新しい感覚を家に持ち帰り、日常生活の中を通して現実とは何か、と結び付けています。

この作業、この生き方のおかげでこの20年、ずっと現実とは何か、夢とは何か、と求め生きる事が出来ました。今、私は「努力禁止」と伝えさせていますが、それは夢を現実へと結び付けていく時に、安易な努力が逆に邪魔になるのだ、と確信したからです。

もちろん、努力を口にし、成功を納めていく人もいます。成功者に聞けば、努力と感謝だ、と言うかもしれません。しかし、その成功者は本当に私たちが普通に想像する努力をしてきたのでしょうか?
私はそこに疑問を持ちました。

気が付いたらやってしまっている、行動してしまっている。ただ、それを周りから見れば、努力している、と見られてしまっているだけかもしれません。また、成功者自身も、自分の過去を振り返り記憶をたどって言葉にした時、努力をした、とつなげてしまったかもしれません。

突然ですが、最近私は「縄跳び」が好きになりました。
子供の頃からずっと、嫌いだったのに。理由はたくさんあります。疲れるし、うまく飛べないし、そもそも楽しくないのです。
小学校の頃、無理やり授業の中に取り入れられやりましたが、そうでなくては自発的には決してやりませんでした。
もし、こんな気持ちのまま努力を重ねたならばグングンと上達をしていくでしょうか?そんなはずはありませんよね。

縄跳びが上手な人はたくさんいます。私は二重跳びすらできませんが、三重跳び、四重跳びを跳ぶ人だっています。おそらく彼らは最初の一歩が「楽しかった」のです。
縄を持ち、用意をしただけで楽しかったのでしょう。しかし、それを自覚する子供も、褒める親、指導者もいません。縄を持ち、立つだけでその姿勢の中に愉快さを見つける人はいません。跳んだ事によって、そこに成功と失敗、結果が生まれますが、その結果を手掛かりに次のステップを用意して指導をしていきます。

私はこの歳になり縄跳びが好きになりました。先日、好きになってから久しぶりに縄を持ち、跳んでみました。するとどうでしょう、まったくスキルが変わっていません。いや、普通に跳ぶ事だって一苦労、数回跳ぶと縄が絡みます(笑)。

しかし、それでも「楽しい」のです。失敗しようが、上手くいこうが関係なく、楽しいのです。

もし、この楽しい感覚を子供の頃に得ていたならばきっと、縄跳びにかける時間も増えたでしょう。時間を重ねれば少しずつ技を得ていきます。自然と上手になっていきます。上手になれば褒められる喜びもするし、誰かと競い、戦う楽しさもわかります。競技会などがあれば次々と目標が出来、情熱も持てます。しかし、楽しいという気持ちを自覚しなければ楽しさを置き去りに、ただ上手になる事、勝つ事だけを求めてしまうでしょう。

失敗しようが関係なく楽しい。
なぜこんな気持ちになったのか。そこには身体の使い方があります。気持ちの問題ではなく、完璧に、身体の問題です。気持ちの入る隙は一分もありません(笑)。

そもそもなぜ縄跳びが嫌いになったのか?
それは疲れるから。
なぜ疲れるのか?
それは足の親指に力が入りすぎる姿勢だったから。
完璧に身体の話です。

足の親指に力が入りすぎるとその力みは膝へと向かいます。
膝がわずかにでも曲げられれば腰に力が流れます。
そして、前かがみ、猫背の姿勢となります。
こんな姿勢で跳んでみればすぐに足指、足首、膝、腰の関節が悲鳴をあげます。

子供の頃から体が大きく、重かった私。縄跳びが嫌いになるのは当然のように思えます。
しかし、それは縄跳びが好きになる姿勢を知らなかったから。前へと向かうのではなく、後ろ、背中へと力が流れる姿勢を知らなかったからです。

仙骨を右にむけ、胸骨を左に向けます。
するとお腹が伸ばされ身体に開く感覚が生まれます。自然と背中が伸びていきます。この感覚がきっかけになりました。
胴体がそうなら腕や脚もそうに違いない。そう考え、腕と脚にも左右へと開く感覚探してみました。

するとどうでしょう。腕は内腕、脚はふくらはぎを意識してみれば開く感覚が生まれます。この開く感覚をどんな時にも維持ができれば、と意識をしました。
当初は歩く事でそれを確かめていましたが、もっと強い刺激でも試してみたい、と考えジャンプをしてみたのです。そして、その姿勢こそ、まさに縄跳びそのものだったのです。

この瞬間、私は縄跳びが好きになりました(笑)。
縄すら持っていない「エア」な状態なのに!

胴体、腕、脚が開いたままの姿勢。この姿勢は自らの体重が前、つまり関節に負荷をかける方向にいかず、背中へと向かいます。全身に張りがある事で、骨に負担がかからないようで楽なのです。
縄跳びが好き!それはもう、お腹ではなく、背中へと流れる力の向きを得ていたからだと思います。

夢と現実の仕組みを伝えるマガジンなのになぜ縄跳びなのだ、と思われるかもしれません。しかし、この体験こそが私にこれを書かせるきっかけとなったのです。
嫌いだったものが一瞬で好きになる。それを経験できた事、自覚出来た事、その理由が分かった事が非常に重要です。

人には様々な夢があります。漠然としたものもあれば具体的なものもあるでしょう。
学校や仕事、スポーツの成績を上げたい人、人間関係をうまくいかせたい人、出世したり、お金持ちになりたい人、いろいろです。

しかし、そもそも、その夢に対して自分が嫌っていれば、向き合う事だってできません。一日、二日、数日なら我慢をして行えるかもしれません。しかし、継続が出来なければ成功への道はつながりません。時間の助けを得られないのです。

もし、願いに対して向き合う事を「好き」になれば。上手くいけば楽しいし、上手くいかなくても楽しく、経験値として得ながら次へと向えます。結果としての現実に一喜一憂する事なく、いつの間にか力や技を得てしまう可能性はとてつもなく大きくなります。

夢は叶ってしまうもの。結果として得られるもの。追い求めていこうとしてもなかなかつかめません。また、掴んだとしても、そこで安心して気を緩め、休んでしまえば、その瞬間、無意識の夢に引き込まれてしまいます。
無意識の夢が楽しいものならいいでしょうが、我慢をしてそこにたどり着いたとすると、大抵は休みを求めます。その休みは運動の停止。安心はしますが、なかなかそれを楽しむ事は出来ません。

嫌いなものはありますか?苦手なものはありますか?

現代は好きなものだけを選び、やれる時代。
「好きな事で生きていく」というキャッチコピーだって生まれます。
自分が好きかどうか、それを追う時間は持てていますか?
頭が求める好きでは足りません。若い間なら身体に無理もさせられます。頭の隙に身体を無理やりあてはめる事もできますが、誰しも老います。
30代が見えてきた辺りからだんだん、頭の好きと身体の好きが分かれていきます。

身体の好きを手にいれられてやっとスタート地点です。
そして、その「好き」こそ夢の種のようなものです。
夢として自分の行きたい場所、立ちたい場所を想像してこそ、この肉体をどう動かせばいいのかがわかってきます。

私はいつの間にか夢の場所へと向えましたが、仕組み、法則がわかったならば最初から夢とは何か、と求める事だってできるでしょう。
夢と現実は左右の問題。上手くいかなければ、その左右を調整すればいい、そう思うようになりました。

上手く伝えられないのは承知の上です(笑)。
むしろ、マニュアルを作ってしまうと「身体的好き」を見失うはず。こうして、ダラダラとその日の気分で現実と夢と身体感覚を言葉にして行く事で、一人一人、それぞれの中にある現実と夢と身体感覚を考えるきっかけになってくれるのではと期待をしています。

言葉では足らないところ、それはぜひ、遠慮なく、稽古の際に聞いてください。質問を貰う事で、さらに新しい言葉が生まれてきますので。よろしくお願いします。

稽古の予定はウェブサイトで。
http://www.karadalab.com/

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